歌うことは難しいことじゃないのか。(2)
(前回の記事はこちらから)
小さい頃、音楽教室に通っていた。
そこで歌を唄うときには、先生の伴奏にあわせて、音程やリズムを外さずに上手に唄うことが求められた。
うまく歌えたときには、おかあさんや先生が褒めてくれて、子どもながらにうれしかった。
学校で歌わされることもあった。
音楽の先生のピアノに合わせて。
それは成績につながるし、同級生の目もあるから、恥ずかしい思いはしたくない。
できるだけ無理せず、感極まってへんな歌い方になったりしないよう、ソツなくこなそうとがんばった。
カラオケで歌っているときには「うまい」と言わせたいところがあった。
音程が合っているとか、高音が出るとか、そんなことで感心されるのが気持ちよかった。
どこで歌っていても「思いっきり表現した」という感覚はなかった。
むしろ、いつもなにかを隠すみたいに歌っていた。
技術で上手にコーティングするようにして。
だれよりも認められたかったくせに。
『魂うた®︎』は、ちがった。
『魂うた』の正式名称は『魂と繋がる歌の唄い方』という。
もう慣れたけれど、最初は怪しい名前だと思っていた。
歌を唄うにしては高額でもあったから、なにかこう、うさん臭い感じの場だといやだなあとも思った。
でも意を決して参加してみると、そこにはいままでとは違う歌う喜びがあった。
レッスンではなく「ファシリテート」されると、僕の歌は「歌いたいところ」へ向かっていった。
たとえば『魂うた』では、音程やリズムを気にしない。それよりもその歌を通してその人が訴えたいこと、歌に託した想いにフォーカスしていく。
どこを聴いているか、という聞き手の意識が違うことで、歌は、本来の場所へ向かうことができた。
音程やリズムを気にしていてはたどり着けない場所、「自分の本当」と言える場所へ。
『魂うた』で聴いてもらうと「この曲はこう歌いたい」というところに
たどり着ける実感があった。
ファシリテートされることで「ああ、こう歌いたかったんだ」と発見することさえあった。
僕は、自分の歌を全うすることができた。
同じ『名もなき詩』でもミスチルのそれではなく、自分の『名もなき詩』を歌っている感覚があった。
それはもう、いままでとは全然違う快感だった。
もっと歌いたい!
もっと聴いて!
という衝動が、体の奥からあふれた。
どこにあったのだろうというくらい。
でも、それがあったことを僕はずっと知っていたのだと思う。
(つづく)