こんな私でいきてゆく

こんな私でいきてゆく。

たとえば、狩猟時代に狩りが苦手な男は、どんなふうに暮らしていたのだろう。

たとえば、武士の世にいくさが嫌いな男は、どうしたらよかったのだろうか。

僕はときどき「男であること」が嫌になることがある。

たとえばそれは、部屋に入り込んだ虫を「叩いて!」と言われるとき。
家族みんなが離れている中で、ひとりスリッパを構える。

でも、僕だってこわい。

そんな自分を「けしからん」「情けない」「武士の風上にも置けない」「日本男児か」と叱る爺さんや屈強な男たちが、僕の心の中にいる。

僕もそっちにまわりたいが、行けない。

こないだ、知り合いの女性が「男性性、女性性の話を読むと『できてない』って言われている気がしていやだ」と言っていた。

女性であることって、いいことがいっぱいあると思う。おしゃれができたりとか。

でも、それが強要になった途端に人の元気をうばう。
「けしからん」と他人や自分を責めることにはそんな悪影響があるのだけれど、人はそこらじゅうで「けしからん」を投げ合っている。

僕は稼ぐことが得意になりたいが、どうにもうまくいかない。
そのことを思うと『ドラえもん』の野比のび太になったような気分になる。

稼ぐことは、現代における狩りやいくさのようなものだ。
それがうまくできないことは、とてもばつの悪いことで「どうしてできないんだ」「それでも男か」と責められる。外から責められているように見えるが、実際は内側の、自分からの攻撃がすごい。

侮辱されると「なにを!」と思うあたりは男っぽいが、実際、稼げていないから勝ち目はない。「言えることないよな」とすごすご引き下がる。

あんまり長い間うまくいかないので、いよいよ僕は「狩りの苦手な男」「いくさが嫌いな男」ではないかという気がしてくる。

たとえば、狩猟時代に編み物が、武士の世にお花が好きな男はどうしていたのだろう。

人にばかにされ、みじめな思いをしながら生涯を終えるしかなかったのだろうか。

のび太にとって勉強がそうであったように、僕にとっては稼ぐことが重荷だ。

こういう気温も低くて弱っている時には、ドラえもんでも阿弥陀さんでもなんでもいいから助けてほしいと思う。

でも、不思議なことに「けしからん」と言われそうな、こんな弱音を吐いていると気持ちが落ち着いていく。

たぶん、こんな自分でも自分だからだ。

それにしても、勉強や稼ぐことって、なんでこんなに重視されるんだろう。
のび太にあやとりと射撃の才能があったように、なにか他の取り柄で勘弁してもらえないものだろうか。

狩りではなく編み物で、いくさではなくお花で、なんとかならないのだろうか。

いつの時代にも、そんなことを思った男たちがいたにちがいない。
そして「なにバカなこと言ってんの」とおかみさんに言われていたのだと思う。

僕は車も好きじゃなかったし、体育会系からは逃げた。
稼ぐのは得意でないし、筋肉を鍛える気もない。

それでも、男だ。

だから、少なからぬ男性が「強さ」を捨てて「やさしさ」に走り、人前で話すのをこわがったり、人に触れることを避けたりする気持ちが、すこし分かる。

そんな僕が「男が『男になる』とき」というワークショップをやっているのは、矛盾したことかもしれない。

でも、この場で『魂うた®︎』を唄って「男になる」のは、すごくいい。

強さ、雄々しさ、威厳、といった「封じられてきた資質」が開花する。
顔だって、凛々しくカッコよく変わる。

「男っていいもんだな」と心から思う。

そのよさを知っていながら、いまだにこんなことを書いているのは、どういうわけなのだろう。

宣伝にならないこんな文章を公開したいと思うのも、だいぶおかしなことに違いない。

でも、こんな私でいきてゆく。

そうしなければ、たぶん苦しいままだからだ。

のび太がのび太のままで生きていける場所。
藤子不二雄先生も、それを夢想しながら『ドラえもん』を描いたのかもしれない。

そして僕もまた、こんな僕だからこそ、夢をみる。

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澤 祐典
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