そっち側の人種。
ある人は覚醒剤で警察に連行されて
ある人はわいせつ行為を雑誌に暴かれた
どちらかっていうと俺はそっち側の人種
泣いても 笑っても 一度きりのライフ
札束を積んでも 引き返すことはできない
悔やんでも 悔やんでも 悔やみきれないことがあっても
それはそれで もうどうしようもないこと
(Mr.Children『お伽話』より)
まるで、いまの事を書いてるように思えるが、これは2016年に発表された曲だ。
「どちらかっていうと俺はそっち側の人種」
ミスチルの櫻井さんは、時々こういうダークな曲を書く。
『ニシエヒガシエ』や『フェイク』『REM』、アルバム曲で言えば『I』とかもか。
キラキラしたポップソングの合間にザクッと挿入されるこういう曲が、僕は好きだ。なんだか大事なところに触れられる感じがする。
ノンフィクション作家の吉岡忍さんは、インタビューで平成の事件の加害者には「歴史」と「人」とのつながりが無いと語っている。
歴史について無知であることは、過去の世代からの縦のつながりが欠落していることで、人とのつながりがないことは、横のつながりが欠けていることを意味する。
無知と孤独。
それが、独り善がりな妄想を加害行為に向かわせる。
でも、過去からの経緯や他人の意見を無視して事を起こすのは、加害者ばかりではない。起業家だって芸術家だって、そう。社会規範からの逸脱という意味では。
「どちらかっていうと俺はそっち側の人種」
それらを分ける境界線は、どこにあるのだろう?
僕はというと、すごく真面目なことを考えていたと思ったら、訳もなくハメをはずしたくなる。きれいなことばかり考えていると、時々なにかや誰かをボロクソに言って憂さを晴らしたくなる。
いままでを帳消しに、台無しにしたい。全部ひっくり返したい。
そういう時「おれは邪悪だから」なんて冗談めかして言うけれど、ちょっとだけ本気が混じっている。
洗っても 洗っても こびりつく いやらしさがあるけど
それはそれで もうどうしようもないこと
芸能は、人の心の闇を光に昇華する活動だと思う。
歌の中で、お芝居の中で、その仕切られた「ステージ」の中で、人は存分に逸脱を許される。そうやって狂気を表現することで、心のバランスをとり、正気でいられる人がいる。
「どちらかっていうと俺はそっち側の人種」
これは、櫻井さんだけのことだろうか。
僕のような平凡な存在にも、もしかしたらあなたにも、それはあるのかもしれない。あるような気がする。
もしそうだとしたら、僕たちにとっての「ステージ」は、どこにあるのだろう。
それは本当に、才能があるとされる人たちだけの特権なのだろうか。