ビュッフェというラスボス。
「食べたい」
と頭が思う量と体が食べられる量には、どうしてこんなに差があるのだろう。
そんなことを思いながら、特製のフレンチトーストをフォークで刺し、口に運ぶ。ここ、ホテルオークラ福岡の自慢の一品らしい。けれど、その時の口はすでに味覚を失いつつあった。モーニングビュッフェ二周目の終盤だったからだ。
「たまにはモーニングビュッフェとか英気を養うことをしてもいいんじゃない?」妻になにげなくそう言ったのが先週のこと。その日から妻は事あるごとに「モーニングビュッフェ、モーニングビュッフェ」と呪文のように唱え、体を左右にフリフリしながら実行の日を待っていた。
ただ、ホテルオークラのモーニングビュッフェは10時で料理が下げられてしまう。そのためには早起きをして、朝の身支度をし、洗濯機を回して干してから出発する必要があった。ここ数日は起床が9時過ぎだったため、そもそも出発することさえできていなかった。
「明日こそはモーニングビュッフェに行く」。
昨晩、妻はそう宣言して床についた。いつものように赤ちゃんは夜中に目を覚まし、5時半ごろからは抱っこでしか寝なくなっていたようだが、決意は変わらなかった。
7時起床。朝の身支度と洗濯を済ませ、家を出たのが8時すぎ。本当は8時にレストランに入っていたかったが仕方ない。妻は跳ねるような足取りで最寄駅へ向かう。
ホテルのビュッフェはわれわれにとってラスボスとも言える存在だ。行くととても楽しいのだけれど、終わった後にはちきれんばかりのお腹を抱えて帰り、布団に倒れこんで全滅して一日が終わってしまう。
まして今回は赤ちゃん連れだ。前回赤ちゃんを連れてビュッフェに行ったときには、お世話に気をとられ、料理の味がぜんぜんしなかった。
・がっつかない。
・あわてない。
・ストラテジー(計画的に食べる)。
僕たちは三つのお約束を定め、自らに言い聞かせながら地下鉄に乗った。
出だしは順調そのものだった。9時にレストランに入ると、妻がまず自分の食べたいものを選び、その間に僕は抱っこひもに赤ちゃんを乗せたまま、料理全体を確認。ストラテジーを練る。そして、夫婦交代し、今度は僕が食べたいものをピックアップする。抱っこひものまま取れる料理も多かったし「がっつかない、あわてない」と言い聞かせていたので、短い時間にちょうどいい量の料理を机に並べることができた。
「いただきます」。
夫婦ニコニコで食べはじめた。はじめは妻が赤ちゃんの面倒をみて、僕が食べる。今日は和食からいこう。最初に手をつけた角煮はホロホロと崩れるようにやわらかく、とんでもなくおいしかった。次にごまさば。ひんやりした食感が心地いいし、味付けが絶妙でごはんが進む。お米の上に乗せた梅干しは甘すぎず、酸っぱすぎずちょうどいい。ふりかけ代わりの梅の香ひじきもいい味出している。いいぞいいぞ。
妻は赤ちゃんにヨーグルトやおかゆをあげていた。食べられるものを選んで持ってきてくれていたのだ。外の食べ物はあまり食べたことがなかったので大丈夫かなと思ったが、最初は違和感を示すも次第にすいすい食べられるようになった。以前はなにも食べられなかったのになぁ、と思いながら自分の食事を進める。
一通り食べ終わったら、妻と交代。僕がおかゆやヨーグルトやバナナをあげる。赤ちゃんはまわりに気をとられながらもそれなりに落ち着いて食べていて「角煮、おいしいね!」などと妻と会話を交わす余裕もあった。
雲行きがあやしくなったのは二周目からだ。「あと15分だよ」と妻が言ったとき、僕はまだ一周目の洋食部門を食べていた。スクランブルエッグ、厚切りベーコン、ソーセージ、サラダ、バゲットのパン。15分あれば余裕だと鷹をくくってモクモクと味わう。
それからおもむろに立ち上がり、リピートのごはんと角煮とごまさばとスクランブルエッグ。忘れてはいけない、締めのとんこつラーメン。それから特製のフレンチトーストと食後のデザートに柿をどっさりとパイナップルを取って戻った。1周目で食べていなかったトーストとクロワッサンとグラノーラ、食後のコーヒーもテーブルの上にある。
すべての皿をテーブルに並べ、ちらっと携帯を見ると「9:57」。あれ、終了3分前?頭の計算が合わない。おまけに僕は二周目を食べはじめる前にトイレに行きたかった。トイレに行って戻ると、すでにビュッフェコーナーは撤収がはじまっていた。
目の前にはいまから「いただきます」を待っている食事群。しかし、すでにお客さんは僕たちだけだと思われる。カチャカチャと下げられていく食器の音を耳にしながら食べるのは、後ろめたくて仕方がなかった。まるで給食が食べられなくて残されているときのよう。
僕は食べるのがわりと早かったから、めったになかったのだけれど、すべての机が後ろに下げられ、黒板の前で帰りの掃除がはじまっている中、狭い机の間に座って給食を食べている子どもの頃の気分がよぎった。だんだん口の中で味がしなくなっていくのを感じながら、残してはいけないと二度目の角煮を頬張る。
「食べたい」と頭が思う量と体が食べられる量には、どうしてこんなに差があるのだろう。レストランを出たわれわれが、はちきれんばかりのお腹をさすりながら思ったことはそれだった。
われわれはまたしてもビュッフェに敗北した。三つのお約束はぜんぜん守れなかった。僕だけでなく妻も同じのようだった。「胃よ、すまん!」僕は胸の上のほうまで膨満感を感じながら、そう嘆いた。
「今度は6時に起きよう」などと自主反省会をして帰路につく。次こそは、優雅に、そしてよく味わってビュッフェを楽しみたい。終わった後はいつもそのように、心に強く誓うのだ。
そのときのために、今日おいしかったものを挙げておく。これを中心に食べることにすれば、次回はこんな目に遭わずに済むはずだ。
・角煮(一回だけにしておく)
・ごまさば(入れすぎない)
・とんこつラーメン(中盤に)
・梅干し
・柿(ゆっくり食べる)
そして、この文章を書いているいま、胃の中の食事はあらかた消化されて、同時にどんな味だったかの記憶も薄れつつある。つい数時間前のことなのに、こんなにも早く忘れてしまうなんて。ビュッフェ、おそろしい子!
ちなみに赤ちゃんはオークラの高級おかゆと持参したバナナを食べてご満悦だった。一番優雅に過ごしたのはおそらく彼だろう。なんだか悔しい気もするが、妻はキラキラして「面白かったね」と言っていたし、まぁ、よしとするか。