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声で逢いましょう。

先日、友だちと「オンライン円坐」というのを試みた。

ビデオ通話でつないで円坐をした時に、会ってするのとどう違うかを試す実験。それは参加者に宇宙遊泳のような地に足がつかない浮遊感を感じさせ、つながっているのに「不在」を感じさせる体験になった。

珍しくはあったけれど、心地よくはなかったので「声だけでやってみたらどうだろう」と提案し、昨日やってみた。

驚いた。

映像があるときよりずっと、みんなが「すぐそば」にいるように感じられたのだ。

参加者の一人は「修学旅行の夜にふとんの中で話してるみたい」と話した。このたとえは実にぴったりで、声だけの円坐は、あの消灯後の旅館の和室で天井を見ながら「誰が好きなの?」と話した感じによく似ていた。視覚、聴覚の感じも、親密さも、なんだかワクワクする感じも。

途中「顔が見たい」というのでビデオ通話にしてみたけれど、お互いの真ん中に城壁が現れたような距離ができて居心地がわるくなった。すぐに音声だけに戻した。

もともとこのオンラインでの実験は、東京に行って会う予定がウィルスの影響でなくなって考えはじめた事だった。その時には、顔を見るより声だけの方がずっと「会える」感じがするなんて思いもよらなかった。人は目も耳も働かせるよりも、一つに集中した方が存在を移しやすいのかもしれない。

そして声だけに耳をすますと、人それぞれの声色もよく感じられた。硬い感じ、黒い感じ、熱を帯びる感じ、霧状になる感じ。その時々の「その人らしさ」に触れられる感じがした。

翌日の今日になって、参加してくれた友だちが感想を書いてくれていた。

そこに引用された記事にこんな言葉があって

――声になった言葉は脳と同時にからだ全体に働きかける。
詩人の谷川俊太郎氏は、こう語っています。

ビデオがあった時には脳でしか会えていなかったのかもしれない。
それが声だけで会った時には、からだ全体で会えたのかもしれない。

と思った。

多くの人が動画配信やビデオチャットに関心を向ける中で、時代に逆行するような発見をしてしまった。うける。

そして「会う」「集う」「触れる」ことがすこし難しくなった今の状況において、この「声で逢う」場はなんらかの役割を果たすかもしれないという手応えも感じた。

というわけで、来週からこの「声で逢う」場をオンライン上に開いてみることにしました。

タイトルは昨日、参加してくれた友だちに相談して決めました。

『声で逢いましょう』

です。どうぞよろしく。

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澤 祐典
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