スムーズよりノイズが。
「話が噛み合わなくなった時にこそ、本来のお互いがいるんじゃないかしら」
今日の『listen.』でつい、こんなことを口走っていた。
いま、その言葉を思い返しながら、この記事を書きはじめている。
昨年末、僕は対話についての記事を集中して書いていた。
これらはいずれも他者との間に「わかりあえなさ」があることを前提にしている。二人の間に「わかりあえなさ」の溝があって、対岸から橋を架けていく。その行為が対話だ。
そのプロセスはスムーズではない。むしろ、スムーズにいかないところがあるからこそ、お互いをよく見ようという意識が芽生える。
ところが、僕らはしばしば逆を好む。会話はスムーズな方がいいし、ストレスはない方がいい。嫌われたくないし、好きなように喋って笑って「よかったね」で終われたら、それに越したことはない。
でも、特定の誰かとの間で「わかりあえなさ」が現れるとき、それはいままでのスムーズさでは交流できなかったなにかが聞かれたがっているのだと僕は思う。
聞かれたがっているもの。
それがあらゆる会話の底流にあり、いつだって表に出るのをうかがっている。
大抵それは「言いづらいこと」だ。
明るい光に照らされて、すらすらとしゃべれるようなことは、日常会話の中で表現されているはずだから。
でもその聞かれたがっている、言いづらいことがおずおずと現れるとき、僕と相手との間に橋が架かりはじめる。
わからない。もっとよく聞く。でも、わからない。それを繰り返し、苦労して、またチャレンジして、まだダメで、疲労して、なおも諦めずにまた聞きにいく。
そんなふうにしているうちに、僕という人の生きてきた歴史や暮らしてきた環境の風土が、相手の歴史や風土と混ざり合う。ちょうど親潮と黒潮が出会うみたいに。
そのとき、人は自分の本来の姿を見出し、その刹那に新たな自分に変わっていくのではなかろうか。
「相手と話が通じない」という話を聞いて、嬉々としてこんなことを語っている僕はよほどの変人なのだろうなと思いつつ、「スムーズよりノイズを」と推す自分がなんだかいきいきとしているように感じた。
人間関係は、もつれてこじれた時が正念場。
普段それに直面したら、めちゃくちゃ苦労もうんざりもしているのに、そんなことを思う新年一発目の『listen.』だった。