僕たちは知ってるよ。
誰かの立場になってみて、はじめて分かることがある。
その視線から、かつての自分を見ることで「ああ、そうだったのか」と得心するようなことが。
先日、僕は児童館に来る子どもがとった態度について、強い口調で指摘した。
「そんな態度でいるともったいない」と。
「ダメだよ」ではなく「もったいない」であり、伝えたかったのは「君はもうそんな態度をとらなくても十分にできる」ということだった。
しかし、彼は強い抵抗を示した。一番抵抗していたのは否定的な言葉ではなく「君にはできる」という肯定だった。「俺はできない!」と彼は声を荒げた。
誉められているのに、認められているのに、その言葉がつらい。
喉から手がでるほど欲しかったものなのに、受け入れられない。
人は、そういう苦しみ方をすることがある。
以前、児童養護施設で働いたときに聞いたことがある。
長年にわたり虐待を受けてきた子どもは、あたたかい環境に保護されても「以前の自分」との違和感を感じて、元に戻ろうとする。そのために、わざわざトラブルを起こそうとすることがあるのだと。
児童館の彼が、そうかは分からない。
でも翌日、児童館にやってきたとき、彼はどこか落ち着かない様子だった。
そわそわ、そわそわ。なにをするにも落ち着かない。
「暴れてやろうか」「いまから殴ってみせようか」と言ってみたり、甘えるように近づいてみたり。その振幅の大きさは、そばにいる僕たちを不安定な気持ちにさせる力があった。
その様子を、見るともなく見ていた館長が言った。
「あいつは大丈夫。ちゃんとわかってる」
人は「本来の自分」を指摘されたとき、「以前の自分」との間で葛藤する生き物だ。「以前」から「本来」に移るとき、そのギャップは地殻変動が起きたように大きな揺れとなって、本人を襲う。
作用反作用の法則のように、そこから抜け出したい思いと、元に戻ろうとする力が両方働くのだ。これは虐待を受けた子どもだけでなく、誰だって、僕だってそう。
そういうとき、揺れる自分を「大丈夫」と見守ってくれる人がいると強い。そのことが彼のアンカー(錨)になる。
僕は自分が不安定になるのをこらえながら、体の内側で足腰を踏んばるようにして彼を見守った。
それは年長者が年少者を見るまなざしではあったが、見下しているわけではない。そのように生きざるを得ない相手の環境と共にいて、いっしょに揺れているような感じだ。
人を見守るとき、その人には、揺れに立ち向かう相手への信頼と敬意が問われる。
「これは大人の仕事だなあ」と思った。
そう思った途端、過去がフラッシュバックして、僕自身が葛藤の中で大きく揺れていたときに、同じように踏ん張りながら見守ってくれていた人の存在に気がついた。
それは目に見えないし、言葉にもなっていない。
「見守る」と書くように、文字通りまなざしの力で踏ん張って、僕を守ってくれていたのだ。そういう内的な筋肉の使い方が、ある。
大丈夫。君はもうできる。
僕たちは知ってるよ。
君がすごくがんばっていることを。
そんなにも揺れながら、前に進もうとしていることを。
がんばれ。あせらずに。
時には元にもどっちゃってもいいさ。
心に浮かんだことを、僕は彼には一言も言わない。ただ、見守る。
赤ちゃんが立ち上がるのを待つように。
いのちの力を信じながら。
そうして見守り、見守られて、人はやがて立ち上がる。
それが連綿とつらなって、人は大人になっていく。