かけがえのないもの。
「最初は『はるかぜ』だったんだけど『きり』の音のほうがはじまりっぽいし、精霊が棲んでいそうな感じもして『きりさめ』にしたんだよね。」
と、出来上がった『あなたのうた』の出だしについて、申し込んでくれた人と話した。
そういうとき、僕はその曲を自分がつくったとは思っていない。
不思議な「なにか」のしたことを「すごいよね」と驚きとともに紹介している感覚でいる。
並べるのもおこがましいかもしれないけれど、スガシカオさんも似たようなことを語っていた。
「だって歌詞を書いているの、俺じゃないから。桜井君(Mr.Childrenの桜井和寿)も一緒に飲むと、『歌詞を書く時、自分で書いていないでしょ?』って言います。いや、確かに自分で書いているんだけど、すごいスピードで、コントロールが利くわけでもなく、何だか知らないうちに突然出てきて、気付くとできちゃっているんです。」
マイケル・ジャクソンもそう言っている。
「私の作曲方法は、自分が歌を作るというよりも歌がやってくるという感じです。以前もお話ししましたが、私はその『源』という感じです。
美しく精神的なもので、木の前に立ち、落ちて来る木の葉に手を伸ばして受け取るような感じです。美しいものです。
私の頭の中に降りてくるのです。それは歩いている時だったり、ベンチに腰掛けている時だったり、ディズニーランドとかどこかでピーナッツを食べている時だったり、私の中へシャワーのように降り注いでくるのです。
我々がいるこの世界に歩きながら目覚めるような感じで、それが私の歌であり、私の内側で生じていることで、全ての構成要素なのです。」
歌はつくるのではなく、やって来る。
そして、歌について語るとき、「自分が」という一人称が消え、相手と自分が、ともに不思議な「なにか」を称えている。
そういうとき、僕はとてもしあわせな気持ちになる。
自分ではない「なにか」の恩恵に預かって、それが誰かを喜ばせることができたことに心から満足する。
「はるかぜ」が「きりさめ」になった話なんて、当事者以外には理解されないし、説明もできない。
でも、僕にとっては、そのことが話せることが何よりの至福だ。
奥さんといるときにも、そういうことがたくさんある。
ちょっとした一言だったり、時々、なぞの踊りをしていたり。
すごくささいなことだけど、そういうとき、僕はいつもより余計に親しい気持ちになって「しあわせだなあ」と思う。「ねえねえ、聞いてよ」と誰彼かまわず話しかけたくなるけれど、やっぱり誰かに伝えられるようなことではない。
そんなあんまり役に立たないような、かけがえのないことがいっぱいある。
一度きりの、その場にいた人しか分からないようなことが、いっぱい。
そう思っている僕は、わかりやすく説明してくださいとか、メリットはなんですかとか、不特定多数にうまく伝えるにはとか、そういうことが時々億劫になる。
いろんなことをうまくやるためには、しなければならないと分かっていても、寄り道をする子どもみたいに、役に立たなそうなものに惹かれてしまう。
「そんなんで生きていけるわけがない」ともう一人の僕が言う。
さあ、仕事だ。稼がなければ。もっとがんばっていこう。
そう言って、座り込んでいる僕の手を引く。
彼の方が説得力があるから、立ち上がる。
でも「勘弁してくれよ」と思う自分もいる。
なんでそんなことしなくてはいけないのか。
本当のところでは、よくわかっていない。
そんなどうしょうもない人が、どうしょうもないままに生きていけるには、どうしたらいいのかな。
ときどき、そんなことを考える。
だって、もう欲しいものやしあわせはあって、それが邪魔されなければ満足なのだから。
ただ、かけがえのない人生を、自分なりに生きていけたらそれでいいのだから。
誕生から死まで、日曜から土曜まで、朝から晩まで、すべての活動が型にはめられ、あらかじめ決められている。
このように型にはまった活動の網に捕らわれた人間が、自分が人間であること、唯一無二の個人であること、たった一度だけ生きるチャンスをあたえられたということ、希望もあれば失望もあり、悲しみや恐れ、愛への憧れや、無と孤立の恐怖もあること、を忘れずにいられるだろうか。
(エーリッヒ・フロム『愛するということ』一九九一年、紀伊國屋書店)
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