「障がい」とは、どこにあるのか。(『ありのままがあるところ』③)
1ページずつ、気に入ったところを抜き書きしながら、野道を散歩するようにこの本を読み進めている。
今日もいくつもの文を拾ったけれど、特に印象に残っているのは、ここだ。
P.83
アートは単体では存在しない。作品と見る人の感性の間にアートがある。つまり「間」にアートがあるのであって、作品そのものはアートではない。また作品に対して感じることは人間にしかできないが、作品だけあっても何も語らない。暗黙のコミュニケーションとでも言うのか、それを受け止める人がいてアートが存在しえるのだ。
このことは、僕自身の仕事についても言える。
ただ15分話を聞いて、曲だけをつくっても『あなたのうた』にはならない。
それを受け止めてくれて、感性を通してなんらかの反応を返してくれたところに『あなたのうた』が現れる。
で、同じことは「障がい」についても言えるのではないか、と思った。
この本の冒頭に、こんな問いかけがある。
P.10
利用者の中には、「自分は障がい者だ」と思っていない人がいる。彼らの多くは「自分は普通だ」と言う。「普通」という言葉をどのように理解しているかは不明確ではある。ただ健常者と比較して自分の行動に支障があり不自由であるとは自覚してはいないようだ。
自分のことを障がい者だと思っていない人を私たちは障がい者と呼ぶことはできないはずだ。
ところが私たち支援者は、最初の出会いから彼らは「障がい者だ」ということを前提にしている。障がい者とは誰のことを指しているのだろうか?まして「障がいを持つ人たち」への支援という仕事はいったい何なのだろう。
健常者と比較して行動に支障があり、不自由であると自覚している人。
そういう人を「障がい者」と呼び、そうでない人を「障がい者」とは呼べない。
「障がい」がそれを自覚する人のところにしか現れないということと、先の「アート」に関する記述とが重なって感じられた。つまり、アートが作品と見る人との間にしか存在しないように、障がいも本人と対象との間にしか存在しないのではないか。
そして、福森さんのこの定義にしたがうと、誰かと比較して支障があり、不自由であると自覚している人は、むしろ「障がい者」と呼ばれていない僕たちの方に多いのではなかろうか。
お金が足りない。パートナーがいない。愛が足りない...etc.
たえず誰かと比較して、支障や不自由を感じて、それを埋めようと努力する。そういう障がいの克服にいのちの時間を費やしているのが「健常者」というふうには言えまいか。
福森さんが同書の中で「わからなくなる」ように、そう考えると「健常者」の人たちがつくる社会というものも「社会復帰」という言葉もわからなくなってくる。「支援」という言葉の意味も。
僕は障がいをもつ(とされている)人の支援に携わったことはない。
けれど、子どもの支援(とされている)現場にいたことはある。
そこでも「支援」という言葉は、しばしば揺らいだ。
僕の現場ではそれはなにかをすることよりも「余計なことをしないこと」「手出しされない空間を担保すること」を意味した。
そんなことを考えていると、この社会が健常者の前に「障がい」をこしらえて、克服させようとしている長いハードル走のように見えてきて面白い。
そんな中「気にしない」「自覚できない」がゆえにハードルを飛ばないまま、好きなことをしている人たちがいて、その人たちが「障がい者」と呼ばれているのだとしたら、僕らはいったい何をしてるんだろうねと思えてくる。
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