ピットフォール
Tonight I'm gonna have myself a real good time
I feel alive
(QUEEN『Don't stop me now』)
11月、僕は猛烈に走っていた。
「男が『男になる』とき」というワークショップの開催に向けて、ものすごい熱量で発信を続けていた。
朝起きると、途端に書きたいことが溢れた。
見つけたニーズの大きさから、反響が反響を呼び、ブログのアクセスもどんどん伸びた。
Don't stop me now
I'm having such a good time
I'm have a ball
「いまは俺を止めないでくれ。
最高に楽しいんだ」
そんな感じで僕は走っていた。メロスのように。
12月、僕は暮れかけている。とても静かだ。
毎日の発信は続いている。
けれど、それほど反応があるわけではない。
あのときの情熱や楽しさの記憶は残っている。
でも、同じように走ろうとして、頭で無理矢理アクセルを踏もうとすると、暴走したりトラブルを起こしたりして疲弊していた。
情熱や喜びは、いつしか「やらなければならない」という強迫的なものに変わっていた。お金のため、大義のため、誰かのため、そういうなにかに駆られるように仕向けないと動けなくなる気がした。
止まってしまうのが怖かった。
かつて、僕は猛烈にがんばって働く人のことを恐れた。
「せっかち」「生き急いでいる」「体を壊しそう」「過労死」
そんなイメージを重ねて、彼や彼女のことを見ていた。
今回、僕は気をゆるめて止まってしまうことを恐れた。
「怠惰」「なまけ者」「無気力」「ダメになってしまう」
以前の自堕落な自分を思い、そこに戻ってはいけないと戒めた。
ずっとメロスのように走るつもりだった。
でも、それは叶わなかった。
年が暮れるのと歩調を合わせるように、僕は走り続けることができなくなった。メロスは息切れした。
人生には、拡大する時期と収縮する時期があるという。
そして、僕は収縮期を過ごすのが苦手だった。
内向的になり、悲観的になり、誰とも話したくなくなる。
それを避けるため、いつも無理に走ろうとしてしまう。
結局、それは事故につながり、強制終了を余儀なくされた。
ガードレールにぶつかるように、落とし穴に落ちるように。人生はちゃんと僕をそちらに仕向けた。
神様のことを人のように語ることがあるが、わかる気がする。
今回もどうあがいても避けられないように「誰か」が罠を仕掛けたように思えた。
絶妙に、ボタン一つぶんだけずらすことで、僕の出力は事故につながった。
ピットフォール。
その穴に落ちることで、僕はようやく頭を冷やすことができた。
ただ今ここから現れる
自分の内にも外にもある波に乗ることをゆるし
楽しむことを自分にゆるすということ。
数日前に書いた本郷綜海さんの言葉が思い出される。
たぶん人生はアクセルとブレーキのついた自動車の運転ではなく、波乗りなのだ。
高い波のときは高く、低い波のときは低く、その波に自らの体をあずけていくこと。
そういえば、以前勤めていた会社の先輩は、オリンピックを目指すほどのスイマーだった。彼の泳ぎはひとかきで、すーいすーいと気持ちいいくらい進んだ。
僕の泳ぎは、バシャバシャと大きなしぶきを立てるばかりで一向に前に進まなかった。文字にするなら、す(バシャバシャ)、い(バシャバシャ)、す(バシャバシャ)、い(バシャバシャ)といった感じ。
そう思うと、僕が騒いでいたのは、あのバシャバシャというしぶきに過ぎなかったのだろうかとも思えてくる(でも、楽しかった)。
つくづく不器用だなあと思う。
もっとすいすい泳げるスイマーだったらいいのにな、と。
でもサーファーが何度も波に飲まれ、海に落ちて上手になっていくように、僕もうまく波に乗れるようになるかもしれない。
猛烈に走るメロスと、のんきに暮らすスナフキンとが共存できるような、そんな自分になれるかもしれない。
そのとき、「せっかち」「生き急いでいる」「体を壊しそう」「過労死」は、情熱の炎に、「怠惰」「なまけ者」「無気力」「ダメになってしまう」は、そよ風のように洗練されていくのかも。
静かな休日。そんなことを考えている。
それまではご近所に迷惑をかけながら、バシャバシャとしぶきを立てていくしかないのだろう。つまり、迷惑というのは人が立てる波のしぶきなのだ。
いずれにしても、まずはビート板からだね。
ピッピッピッと室内プールに響く笛の音と、幼稚園くらいの頃、水泳教室に通いたくなくて泣いた自分を思い出した。
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