「違う」と認めること。
今日はなんだかくたびれていて、なにもやる気がしないので、ロッキンチェアにからだを預け、吉本ばななさんの『「違うこと」をしないこと』を読んでいた。
自分を納得させようとする時って、たいてい、本来の自分を見失っている。
ごまかし続けていると、どんどん苦しくなるし、何かが立ち行かなくなったりする。本来の自分とズレてるから、それがちゃんと現実に反映されるわけです。
読みながら「この疲れ方は、またしても自分が『本来の自分』からズレたのかな」と思った。
人には「本来の自分」と「本来じゃない自分」を生きているときがある。
それがクリアになってきたのは、つい最近のことだ。
「本来の自分」「本当の自分」といった言葉に出会ったのは、2013年、本郷綜海さんの『魂うた®️』を受けたとき。
そのときには「歌うのって気持ちいい!」という体感がまさっていたので、その体験が「本来」というよりも、新しくてすごい経験をさせてもらったと感じていた。
三年前に『魂うた』ファシリテーターになったときも、まだしっくり来ていなかった。「本当ってなんだよ、いつだって本当じゃないか」なんて思っていたので、案内の文章を書くときには「別の言い方ができないか」と躍起になった。
いま思えば、ふだん生きている自分が「本来の自分」じゃないことを認めたくなかったんだと思う。「ごまかし続けていると、どんどん苦しくなるし、何かが立ち行かなくなったりする」とばななさんが書いた通り「本来の自分」というものを否定しようとすればするほど、生活は苦しくなった。
本来の自分と調和していない感じの人がいると、すぐに気づきます。「この人、本当はこういう人じゃないんだろうな」って。自分じゃないことをしてるから、こっちもなんとなく居心地が悪くなる。
もちろんよけいなお世話なのでいちいちは言わないけど「本来はこういう人だよね」「だったら、こうすれば楽なのに」ってよく思う。
最近、こう感じることが増えた。「よけいなお世話」なのだけれど、そのズレを言いそうになること(言ってしまうこと)も増えた。
自分じゃないことをしている人といると、こっちもなんとなく居心地が悪くなる。それをどうにかしたくて、人は相手に向かう。
これは、僕のもう一人の師匠、橋本久仁彦さんがひらく「円坐」の場で起きたことそのものだった。この場で、僕は橋本さんやほかの参加者から数多くの手厳しい指摘を受けた。
あまりにもズレがひどいと、人はその人に関われなくなることも知った。それはやさしさがあるとかないという問題ではなく、コミュニケーションの可能性が閉ざされてしまうことによって。
月日を重ね、いろんな人との関わりを経験するたびに「本来の自分を生きること」の重要性は増していった。
いまや、自分が自分に対して怒りをおぼえるほどに、切実なものになっている。
いつのまにか僕は「本来の自分」とズレていることが、嫌で嫌でしかたがない人になっていた。
本来の自分を生きるには、違うことをしないことが大切。
じゃあ「違うことをしない」って、どういうことなんでしょうね。
「したいことをする」っていうのとすごく似てるけど、微妙に違うんですよ。言葉で説明するのがちょっと難しいのですが、ヘンに力が入ったり、ちょっとでも圧がある感じがあったら「あ、こういうことじゃないな」と思ってください。
ばななさんは「違うことをしないことが大切」と語る。
そのためには、自分にとって「違うこと」を感知する必要がある。
いや、感知していることを認める必要があると言った方がただしいのかもしれない。からだはいつも、それを知っているのだから。
「違うこと」を認めると、まわりとの人間関係において「違う」を貫く必要に迫られる。それはいままで「違うこと」をしていた自分を壊すことで、その自分と接点を持っていた相手との関係を崩すことにもなる。
少なからず、勇気がいる場面もあるだろう。
いい人ばかりじゃいられない、というか。
でも一度崩したあと、新しい自分、「違うことをしない」自分で関係を結び直すこともできる。できないこともあるかもしれないけれど。
そう思うと、僕はいま、なにかに「違う」と見切りをつけるために、こんなことを書いて、エンジンをふかしているのかもしれない。
炎の中で死んで蘇る火の鳥のように、僕は自分の中のなにか、あるいは自分自身を「違う」と燃やし尽くしてしまいたいのだと思う。
そして同じだけの強さで、変わりたくない自分もいるのだと思う。