新世界。
昨日は、一日じゅう寝ていた。
こんなに寝たのは二十年ちかく前の学生の頃以来というくらい寝た。ふつうこのくらい寝てしまうと、寝すぎて頭痛になるのだけれど、それもなかった。
理由はわからない。でも、はじめて行った障がい者施設での体験が影響しているような気がする。
はじめて触れる障がいをもつ人たちの暮らしは、とても平凡だった。
テレビを観る、ごはんを食べる、おふろに入る、寝る。起きて、ごはんを食べる。作業所に行く。その間に話せる人とは話をし、言葉が話せない人はなにかを発声していた。
そして、とてもゆっくりだった。
それもそのはず、麻痺があり足が痛い人は、その痛みゆえに服を着たり脱いだりするのに時間がかかる。それに痛み自体に意識を向けている時間が多い。麻痺がない人も、一つ一つの行動には時間がかかり、意識を向ける対象は僕らとは全く違う。
たった一日の勤務だったけれど、彼らの生活は「ずっと」続くのだと予想された。そうではない未来を思い描くことは、ほとんど不可能に思えたし、それでいい気がした。
私たちは同じことの繰り返しを退屈と感じ、刺激と変化を求める。
だが、彼らの人生観はそれとは少し違う。いつもと同じ日が続く。こちらから見ると単調に見える暮らしでありながら、そこに安心という幸せがあるようだ。
(福森伸『ありのままがあるところ』P.142)
彼らは「できること」と「できないこと」が実にはっきりしている。
そして「できること」の範囲内で生活している。それが揺らがないというか、揺るぎにくい環境に身をおいているから、安心感があるのかもしれない。
一方、僕らは「できること」と「できないこと」の境界線があいまいだ。
「できるかもしれない」と思って努力して、うまくいったり挫折したりする。
彼らと僕らの世界は、まるで違うのだと思う。
たぶん、僕が一日でみたどころの騒ぎでなく。
昨日の異様なまでの眠りの深さは、その別世界を往来した時差ボケみたいなものだったんじゃないかしら。
そして今日、僕は別の障がい者施設のアルバイトの面接に行った。
一年に一度も連絡をとらない専門学校の先生から、月曜日に突然、紹介された施設。
自営業もあるし、バイトも掛け持ちしていたから体力的に心配だったけれど、やることにしてしまった。そんなつもりもなかったのに。
いままで関わることがほぼなかった「障がいをもつ人たち」が突然どっと入ってくる。
2020年最初の十日ほどで、それが一気に決まってしまった。
自分で決めたというよりは、大きな波をざぶんとかぶったみたいにして。
私たちとはまるで違う感性や感覚を持った人々が生きているという事実を日々見せつけられている。
(福森伸『ありのままがあるところ』P.166)
その体験が、僕の前にも待っているような気がする。
でも、どうかな。続くかな。続くといいな。