魂の火は燃えているか_4

魂の火は燃えているか。

昨晩のことだ。

勤め先の児童館で、中高生による座談会が開かれた。

テーマは「いじめ」。
一ヶ月ほど前、急に火がついた内容が、そのまま収まることなく、五週目を迎えていた。

僕は初回以来の参加だった。
そのとき、いきなり噴き出した怒りや悲しみの炎の大きさを知っていたので、どんなことになっているのだろうと思いながら席についた。

結果からいうと、めちゃくちゃつまらなかった。

中高生たちはだれも自らを語ろうとせず、気心の知れた人とだけ話をし、七人しか参加していないのに三つのグループに分かれてしまった。

僕たち大人の仕切りの問題はあったと思う。
けれど、それ以上に大きな影響力をもったのが、Uくんという高校生だった。

彼こそが「最初の火」だった。
初回、僕たちが説明する名古屋市の取り組みに「どこが」と怒りをあらわにし「いじめ」のつらさを切々と、しかしいきいきと語っていたのが、彼だった。

初回が終わった後、彼は憑き物が落ちたような顔をして「面白かった!」と笑った。そして「この会をもっとやりたい。他の児童館でも、いろんなところで」と目を輝かせながら語っていた。

しかし昨日、彼は終始、場を批判し、他の参加者の意見を否定していた。

気になって尋ねてみると、二回目に別の子に火がついて、その子の発言により話が盛り上がっていくのを「主導権をとられた」「置いていかれた」と感じたという。

彼は、拗ねていた。

「こんな堅い話はしたくない」
「愚痴の言い合いにすぎないじゃないか」

苛立ちながらそう訴えることで、彼は場の関心や主導権を取り戻そうとしていた。それしか戻り方を知らなかったのだと思う。

その拗ね方には、身におぼえがあった。僕も過去にそうやって他人を批判し、自分を中心に据えようとしたことが何度もあった。

「彼は、話の輪に入れなくてさみしいのだ」

そう思ってひとしきり話を聞くと、彼は「イベントの話がしたい」と言った。全員が話せそうだと思い、僕はテーマをそちらに変えた。

これが大失敗だった。彼は主導権が戻ってきたことを喜んだが、そのときには、まわりのメンバーが誰もついてきていなかった。

イベントの話はまったく盛り上がらず、一瞬、嬉しそうだったUくんも次第に意気消沈していった。しばらくすると中座して、部屋からすこし離れたところにベンチを置き、以降すべての話に「どうでもいい」と言い出した。

その場にいた誰からも、あの日のいきいきとした感じは失われ、みんながバラバラになり、いつも「退屈だ」と言っている「なんとなくやっている過ごし方」を繰り返すようになった。

僕は出会いたかったところで、Uくんとも、誰とも出会えず、ただただ退屈していた。なんの意味もない時間だと思ったので、途中で打ち切った。

思えば、その日の会には最初からあの「燃えている」感じはなかった。
面白がって続けているとのことだったが、それは思考が活発になったり、同じ話題で人とおしゃべりができたりする楽しさだったのかもしれない。

そうして話題を延命させることは、たしかにできるし、それが悪いとは言わない。

けれど、僕が欲しかったのは、あの燃える感じだった。

<よくぞ、聞いてくれた。>

という心の奥からの叫びを聞くような。

彼の拗ねは目論見どおり、場を台無しにすることに成功した。
けれど同時に、彼の内側にあった、魂の火をも消してしまうことになった。

いや、魂の火は消えない。
けれど、それが出てくる場所を、自ら封じてしまったように思えた。

僕にはそれ以上、どうすることもできなかった。

どうしたらよかったのだろう。
いま、こうして書いていても、無念さがあることに気づく。

Uくんよ、魂の火は燃えているか。

人は怖がったり、拗ねたりすることで、自らのいきいきとした感情を引っ込めてしまう。他者に受け入れられないことを怖れるあまりに、先に自らの手で批判し、殺してしまうことさえする。

でも、それではいつ生きるというのだろう。
すでに死んでいるそれを、ただ延命させるに過ぎないではないか。

魂の火は燃えているか。

僕はもっと怒ればよかったのかもしれない。
それには勇気が足りなかった。

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澤 祐典
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