奈落のむこうの十年

奈落のむこうの十年。

「よくもまあ、この会社を辞めるなんて思ったね。
 後悔しないといいけど」

と、にやにやしながらその人は、退職の挨拶をしに行った僕に言った。

当時勤めていた会社の、たしか技術部門の部長さんだったと思う。十分な地位も得ていて、この先も安泰。そういう立場から見たら、僕の決断はあまりにも無謀に思えたのかも知れない。

皮肉だったのか、心配だったのか、真意は分からない。ただ、部長さんには僕のゆく世界がまるで奈落の底に落ちていくように見えるんだな、というニュアンスは伝わってきた。

2008年のことだ。
その年、僕は31歳で十年近く勤めた会社を辞めた。

「今日は書くことがないな」と思っていたら、ふっと、そのときの部長さんの笑みが思い出されて、こんな文章を書きはじめている。

もうすぐ、2018年が終わる。
あれから十年。なにも分からずに飛び込んだ奈落には、当時の僕が想像もしていなかった経験が待っていた。

社会起業、人の話を聞くこと、ニート、入院、『魂うた®︎』、起業、結婚、別居。会社員をやっていた二十代よりも圧倒的に変化に富んだ、濃密な十年だった。

進めば進むほど、新しい出会いがあり、かつての場所との距離は離れた。
はじめの頃は、以前の自分との整合性を気にしていたけれど、途中から収拾がつかなくなって、いまの自分がどう見えているかは、もはやよく分からない。

なんとか周りと合わせてやっているつもりだけれど、いつもはぐれ者だと思ってしまうところがあって、身近な人から自分の言っていることを「分からない」と言われたりすると、すごくショックを受けて、悲しい気持ちになる。

よく聞き、よく語ることで、通じ合える。
どんなに経験してきたことが違っていたとしても。

どこかでそう信じているから「分からない」と言われると、自分の無力さに気づかされ、相手とも切り離されてしまった感じがして、悲しいのだ。もちろん過剰に反応しているのだけれど、咄嗟に立て直すことができない。

実際には、自分のしてきたこと全部を分かってもらうなんてできっこなくて、一番身近にいる奥さんでさえ知らない歴史がいっぱいある。僕自身が忘れてしまったことも含めれば、「わたし」というのは、誰にも侵すことのできない、すさまじい歴史の厚みを経て形成された構築物だということが分かる。

たった一人が、国会図書館よりも、グーグルよりも、AIよりも圧倒的な情報を蓄積し、たえず処理している。そう思うと、金銭で換算される(労働力としての)人の価値とその人の貴重さ、かけがえのなさが釣り合わないのは、当然のことなのかもしれない。人のかけがえのなさは、比較のための度量である数値にはそぐわないのだ。

通勤のバスに乗りながら、そんなことをぼーっと考えていた。
あの部長は、きっと自分の視界の外、奈落のむこうにこんな世界があることを知らない。そして、僕もまた、部長のその後の行く末を知ることはない。

でも、どちらにも圧倒的な情報量の世界があり、今日もまた変化し続けている。奈落など、どこにもないのだ。

この十年を振り返るとき「よく生きてこられたな」と率直に思う。それほどに非常識で、愚かなこともたくさんしてきたし、二度としたくない経験もかなりあった。でも、いま、こうしてまあまあ幸せに暮らしている。

人生って、人って、なんなんだろう。
なんか、とてつもなくすごいものを、それと知らずに生きているような気がして、月を眺めた。

明日は、満月だそうだ。
いったい、だれが、こんなものをつくったんだろうね。

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