ルビンの壺

「顔」じゃなくて「壺」だった。

今朝、近所のレストランで奥さんの話を聞いているときに、ふと思い立って「未二観していい?」とお願いした。

「これから15分はあなたの時間です。」と宣言すると、それまでぼーっとしていた意識がシャキッとクリアになった。気持ちよかった。

それだけではない。
奥さんがした話は、昨日の晩から話しているのと同じ内容だったのに、聞こえ方がまるで違った。

奥さんが何度も言う「うれしいこと」や「前向きなこと」がそれまで僕には今ひとつ伝わっていなかったのだけれど、たどりながら「ああ、なるほど」と腑に落ちた。

それはちょうど、タイトル写真にしただまし絵の「壺」が見えてくる感じに近い。

未二観をするまで、僕は奥さんの話の「顔」にばかり注意を向けていた。「壺」は背景になって、あるのに見えていない。そうしようと意識したわけではなく、自動的にそんな処理がなされていた感じで、だから奥さんの喜びが今ひとつ伝わってこなかったのだ。

それが未二観をすることで、なぜかちゃんと「壺」に注意が向くようになった。僕と奥さんの目の焦点が合って、それまで的外れなところにカメラを向けていたことに気が付いた。

こんな体感ははじめてだったので、とても面白く、また驚きだった。
「答えが目の前にあっても、人はそれを見逃す」と言われる意味がわかった。自分の価値観かなにかでできたフィルターが、自動的に答えを背景にしてしまって、意識が向かないのだ。

だから、あるのに見えない。衝撃である。

なんで未二観だと、それが相手と同じフォーカスになるのかは分からない。声と言葉をたどることが、自分の「準拠枠」を緩めるんだろうか。

それにあの宣言した途端の心地のよさは、なんだったんだろう。
それまでもたくさんの未二観をしてきたけれど、あんなにはっきり感じたのは、はじめてのことだった。いよいよ体質まで変わってきてしまったらしい。

いずれにせよ、未二観で人の話を「たどる」ことは楽しい。
そして、そこには思いがけない発見がある。

その頻度がこのところ急に高まっていて、うれしい限りだ。

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澤 祐典
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