筋を通す、ということ。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
(童謡『通りゃんせ』より)
「その筋なら入ってくる感じがする」
と、彼女は言った。
今日の大阪、石切での『未二観レビューの手ほどき』での一場面。
ずいぶん長い間、二人はやり取りしていた。
円坐だったので、場の全員が二人の話を聞く形になる。
彼の語る言葉は、聞き手の彼女に届いていなかった。
ぼくもいま一つつかめない感じがあった。
一生懸命、言葉を変えながら「語弊があるかもしれないんですが」と時に矛盾するようなことも言いながら、彼は真摯に自分の言葉を重ねていった。彼女もそれを聞いて、起こってきた言葉を返す。
何往復もして、それでも通じずに、だんだん息苦しくなり、場の緊張感が高まった。
「その筋なら入ってくる感じがする」
彼女の放った言葉は、唐突に現れたように見えた。
でも、たしかにそのとき、二人の間にあった緊迫が解けていた。
「言ってよかった」と彼は言った。
「成仏した感じがする」と彼女は言った。
大阪では、道のことを「筋」という。御堂筋、堺筋の筋だ。
このとき、ぼくはその筋のことを思い出していた。
語る彼と聞く彼女の間に、道が通った。
それはその言葉の置き方、順番、熱量でなければ、通らない「筋」だった。
あとから橋本久仁彦さんが解説してくれたところによると「筋を通す」というのには二種類あるという。
一つは、自分自身に、タテ方向に筋を通すこと。
そしてもう一つは、ヨコ方向に、相手に「筋が通る」ように自分の言葉を届けること。
そして、相手の道筋で言葉を届けようとすることは、同時に自分自身に筋を通すことにもなる。
懸命に聴き、懸命に語るとき、二人はお互いにだけ通じる筋を、いま、まさに築こうとしている。そこで通じ合ったとき、二人の関係の道幅が広がる。相手もいっしょに入れる筋になる。
それは「理解されること」とはまったく違う、と橋本さんは言った。
このことは、自分自身の結婚生活とも重なった。
奥さんとどうやっても話が通じないとき、お互いストレスが溜まり、どんどんしんどくなる。
言っても言っても伝わらない。
言葉に言葉がかぶさってきて、ますます見えなくなる。
わかる気がないんじゃないか、とお互いに腹が立つ。
「聞けよ!」
と二人が同時に思っていたりする。
でも、どこかの段階ですっと「通る」感じがして、その後は急に話が通じるようになる。
まるで新鮮に出会い直したみたいに。
それは大抵、どちらかが自分の主張を諦め、相手の話を「聞き」はじめたときに起こる。相手が入れる余地が、関係に空気を入れて、筋を通すのかもしれない。
その筋の通り方は、ぼくと奥さんでしかありえない。
誰にでもうまくいくとされているメソッドは、ぼくらの関係では全く歯が立たなかった。
繰り返すが、誰にでもらくに通る筋などない。
それはひとりひとり、その人との間で懸命に聞き、語る中で掘削されていく海底トンネルのようなものなのだ。
その絶えざる道路工事を続けていくことが、人間関係なのかもしれない。
「逃げられないわけです、人から。で、人から逃げると人生から逃げることになるから、己から逃げることになるわけだ。
ここはラクじゃないんです!生まれてきたときに泣いたから知っているはずだ。生きていくのは、しんどくていいんだっつーの。」
と、橋本さんは語った。
薄々気づいてたけど「ですよね」とぼくは思った。