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三つの「いのち」。

昼ごはんを食べているときに、床を縦横無尽に這いまわり、丸テーブルの足や充電コードにさわる赤ちゃんを見ていると、つくづく、つくづく、不思議に思う。

僕と奥さんと、もう一人、自らの意思で暮らしている「いのち」がある。こんなにも小さくて、言葉も話さないのに、どこに行きたいのかを自分で考え、好きなようにわが家を探検し、おっぱいを飲み、うんちをして、すやすや眠る。そのことが、やっぱりどうしても不思議なのだ。

去年のいま頃は奥さんのおなかの中にいた「いのち」が、すでに人生をはじめている。僕も奥さんも自分ではおぼえていない、最初期の場面に立ち会っている。それが日常の暮らしに溶けて「当たり前」になっている。すごいことだ。

「そういえば、”ニンニン”って言わなくなったね」と奥さんと話した。
赤ちゃんの口ぐせの話だ。一時期、忍者のように「ニンニン」と言っていて、すごくかわいかったのだけれど、いつの間にか全く言わなくなった。いまは「い゙ い゙ い゙ い゙ い゙ い゙」とすべての音に濁音がついている。「濁音時代」と奥さんが言った。この時代もいつの間にか終わるのだろう。

「まままま」とか「ぱぱぱぱ」はずいぶん増えた。いつからか一緒にいる二つの「いのち」のことは、なんとなく認識しはじめているようだ。時々、僕のほうに「まままま」と言ったり、おっぱいを求めて胸をたたいたりすることもあるけれど。

そうして、縁あって暮らしている三つの「いのち」が今日もごはんを食べたり、昼寝をしたり、散歩をしたりして「一日」という時間を過ごした。こんななにげない日常もいろんな偶然と決断と奇跡がなければ成り立たなかったんだなあと思うと、やっぱりどうにもありがたく思う。

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澤 祐典
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