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本屋と人生。

今日、久々に大型書店に行き、長時間すごした。
以前はよくこういう過ごし方をしていたのだけれど、コロナ以来すっかりご無沙汰になっていた。

背表紙のタイトルを眺めながら、ぶらぶら散歩をしていると、世の中には実に多種多様な興味があることに気づく。小説、マンガ、雑誌、学習参考書といった分類の中にさらに占い、スポーツ、ゲーム、手芸、料理……とあって、ずっと見ていると気持ち悪くなる。自分の許容量よりもはるかに多い情報量を具体的に想像しようとして、身体が受け付けなくなるのだ。

この本屋にある無数の書物のうち、ほんの数冊しか自分は関心をもつことができない。一生、手にとることもないまま、存在していることも知らないまま、終わっていくものの方がずっと多い。そう知ることで、自分がちっぽけに思えたり、なんだか悲しくなったりする。自分がこうだと思っている世界など、ほんのわずかにすぎない。

あと背表紙とタイトルを眺めているうちに、その作者や編集者のことも想像する。

この一冊を出すのにどれほどの時間と労力をかけたことか。そんなふうに紡いだ時間の結晶にもかかわらず、僕自身は見ることもない。知らない誰かがどこかで買うことによって、存在を保っているのだ。

自分が見ることのない大量の本の作者や編集者と、どこかでそれを買っている見知らぬ誰かの動きを想像して、やはりおえっとなる。

なんというか、人生について僕にわかっていることはあまりにも少ない。
それ以上入れようとしても、満腹のお腹にごはんを詰め込むようになってしまって受け付けない。人は身体が受け付ける量しか食べることはできないのだ。

にもかかわらず「読んでおいた方がいいかな」などと思い、受け付けない本を読もうとしたりもする。知っておかないといけない気がして、わかりもしないことに手を伸ばしたりもする。でも、入らないものは入らない。

そう思うと、自分というのは、世界のうち、極めて限定された部分にしか触れられないことがわかる。才能とかスキルとかとは関係なく、身体が受け付けられる量として。

本屋に行くとよく「生きてるってなんだろう」と途方に暮れてしまうことがあるのだけれど、結局、興味のあることしか興味はもてないし、その条件の中でまっとうしていくしかないのだと気づかされる。

しばしばその身の丈を忘れて、自分がすべてを知ったような気にもなるのだけれど。

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澤 祐典
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