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連続する固有の出来事。

おととい、浜松で行われた法事で、お坊さんが小さな木魚を持ってきた。
味噌汁碗くらいの大きさで、大きな肉まんほどの座布団の上にのっている。だんごに串を刺したような棒で叩くと、ポクポクといい音がした上に、跳ねる。

お坊さんは浄土宗らしく抑揚の効いたお経とともにけっこうな勢いでビートを刻む。そのたび木魚が座布団からはみ出てしまわぬかと心配になるが、大きく跳ねたあと上手に着地して法事はつつがなく執り行われた。

いま、その木魚がほしくなっている。

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今日入った緑茶の専門店で「人は温度を美味しいと感じるのだ」と思った。たとえば玉緑茶は70℃、千寿は60℃で煎れる。そこが一番美味しく感じる味なのだと教わる。

同様にそうめんはきりっと冷やした方がいい。コーンポタージュスープは、ぬるいと飲むに耐えない。そんなふうにして僕らは温度を味としてたのしんでいる。そんなこと意識したことがなかったが、人生43年目の発見だ。

このようなことは些細だし、基本的にどうでもいいことだ。しかし、大きな「事件」ばかりでなく、このようなどうでもいいことの連続で人生はできている。木魚や温度の発見は、他の誰にも影響を与えはしまいが、僕自身の暮らしをほんの少し変える。

「人生は、固有の出来事の連続」という言葉がいまだに余韻を残している。もっともこの言葉は

人生は、固有の出来事の連続だから、同じ悲痛は存在しない。
(若松英輔『悲しみの秘儀』P.31)

という文章の一部であり、力点は「同じ悲痛は存在しない」にある。こんな切り取り方をしたら若松さんに悪いような気がする。

それでも『悲しみの秘儀』という本の、本旨とは関わりの薄い、経過音のようなこの言葉に惹かれてしまう。

「固有」とは、世界の「どうでもいい」とされているところに、なぜか惹かれてしまうことかもしれない。それは道端に生えている見向きもされない雑草にふと注意が向いて、思わず手にとって眺めてしまうような、僕だけにわかる、僕一人のところで自己完結する世界の味わいであって、基本的に他者を必要としない。

しかし「どうでもいい」は「価値がない」ということではない。他者とわかり合うことも分かち合うこともないような価値だからといって、無意味とは言えない。

そこでたしかに世界と共鳴したのだから。

その先に、自分だけがわかるはずの価値に、同じく価値を感じる他者との奇跡的な邂逅があるのだと思う。わかるはずもないことがわかり合えるのだから、大げさかもしれないが、奇跡とよぶほかにない。

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澤 祐典
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