十年かかる。
フェイスブックで流れてきた記事に、吉本ばななさんのこんな発言が紹介されていた。
ある時、このまま小説家のやり方というか、書き方というか、生き方というか、職業としての小説家の生き方を続けていくのは「無理だな」と思った時がありました。そこから10年かけて、すべてを変えるように実行してきたんです。
10年って結構長くて、途中で何回も「やっぱり前のスタイルが楽かな」と思った時もありました。特に経済的に困窮したときは、「これはやっぱり、やり方が間違っているのかな」とも思ったんですけど、結果的には間違ってはいなかったんです。
ですから、「何かを叶えようとすると試練がある」というのは、実は試練じゃなくて「過程」なんだと思いますね。
あのばななさんですら経済的に困窮することがあるのか、と驚きつつ、十年という時間が妙に印象に残った。
以前から「十年かかる」という言い方は、目にしていた。
そのたびに「長いな」と思って、無視してきた。
「これから十年かかりますよ」などと言われたら、いやになってしまうからだ。
けれど、ついさっき、自分が会社員をやめてから十年経ったことに気がついた。
それは、会社員そして従業員であることから、個人事業主へと変わっていく期間であり、そこには、ばななさんの言う「やっぱり前のスタイルが楽かな」「これはやっぱり、やり方が間違っているのかな」があった。きつかったし、いまも経済的にはきつい。
ようやく「それらしく」なってきたかな、というふうに思えたのは、たしかにこの一年くらいのような気がする。それまでもあれこれやってはいたけれど、どこかすかすかな感じがあったから。
話はとぶが、昨日の午後、ぼくはこんなブログを書いた。
そこに定年を迎えた会社員のことを書いたのだけれど、これは、ぼくの父をモデルにしている。
ところが、昨晩、実家に帰って食事を共にした父は、変わっていた。
以前は、むっつり押し黙って何も話さなかったのに、妙に口数が多い。
なんだかほがらかで、ソワソワしながらラグビーの試合を観戦している。
「あれ、こんな人だったっけ?」と思ったが、そういえば、最近、父は、なんだかしあわせそうだ。なにか特別なことがあったとは思えないけれど、写真に映る表情も以前とぜんぜん違う。とてもいい顔をしている。
かわいい孫が四人もいて、にぎやかなこともあるだろうけれど、そういえば、父が定年になり役職を外されてから、ちょうど十年経っていた。
父は愛社精神の強いサラリーマンで、役職も強い責任感をもって果たしていた。だからこそ、そこから外され、転籍させられ、毎年、給料が減っていく十年はつらかったと思う。
「もしかしたら、サラリーマンが溶けるのに十年かかったのかもしれない」と思った。ようやく父は、本来のほがらかな父に戻れたのかもしれない。
そう思うと、昨日のブログの
残念ながら、会社は、老後まではついてきてくれない。
そして、会社を退職してからの時間は、どんどん長くなっている。
という部分は、それほど悲観的なことでもないのかもしれない。
たしかに退職してからの時間は、長くなった。
けれど、その時間の中で会社員のアイデンティティを溶かしながら、フリーズした人は、本来の自分に戻ることができる。
父を見ていて、そんなふうに感じた。
そして、何歳からでも人は変われるのかもしれないとも思った。
「何かを叶えようとすると試練がある」というのは、実は試練じゃなくて「過程」なんだと思いますね。
と、ばななさんは言う。
その「過程」というのは、もしかしたら「叶わない自分」から「叶う自分」に変わっていく過程とも言えるのかもしれない。
その間、一番キツかったのは、(周囲の)人の目でした。「そんなことしちゃって大丈夫?」っていうのもあったし、編集の人たちの「今までのようにやろうよ」っていう空気だったり。
もし、日本人特有の「空気を読む」をあの時私がやっていたら、きっと以前と同じ(違和感のある)ことを続けていたと思いますね。(型にはまった)日本的な仕事のスタイルから離れていくのは、本当に大変でした。
という大変さに耐えながら、痛みを伴いながら、しかし、人は変わっていく。変わることができる。
だとしたら、
「これはやっぱり、やり方が間違っているのかな」とも思ったんですけど、結果的には間違ってはいなかったんです。
って、ぼくももうじき、言えるようになるんだろうか。
「あとちょっと」って気が(夫婦ともに)してるんだけど。