参加費について。
自営業をはじめて、ワークショップの主催者になって以来、難しく感じてきたのが参加費の設定だ。
いくらなら来やすいのか。いくらだと高すぎるのか。
こんなにもらっていいのか。こんなに少ないと困るんじゃないか。
お金の話は、人を正直にすると思う。
なにをよいと思い、なにを嫌うのかも明らかにする。
こんなに低く設定している自分は、自信がなさすぎるんじゃないか。
こんなに高く設定している自分は、欲深いのか。
そんなことまで考えて逡巡しつつ、いまはある程度の理屈に直感を混ぜて、えいやーと決めざるを得ない状況だ。
そんな中、知り合いが紹介していたワークショップの参加費の案内が素晴らしかった。
私たちの住む星「地球」には、今何が起こっているんだろう?
という問いかけからはじまる案内文は、どこを読んでも丁寧に対話していこうとする姿勢が感じられるし「ウェルカム」という感じが伝わってくる。
はじめにファシリテーターと柱となる三つのワークの紹介があって、会場や定員の説明が続いて、後半に差し掛かったところで、
参加費についてお話させてください。
と呼びかけられる。
こんなふうにワークショップの主催者から、お金のことで話しかけられるのは、はじめてだ。
そして、
参加費 + ドネーション + スカラシップ(奨学金)
という三本立てで、お金について考えていることが丁寧に語られていく。
参加費は、参加者と主催者の実費相当。
この時点では、まだ「利益」にあたる金額は載っていないようだ。
その部分は「ドネーション」として、ワークショップの最後に受け取りたいと表明されている。
私たちにとっての“ドネーション”は、
「この機会で受け取ることができた価値や、ワークショップチームのこれからの活動への共感・支援の想いを乗せたお金として、ひとりひとりが金額を決める、エネルギーの循環の一つの形」
という意味合いを持っています。
すこし抽象的だけれど、こうして説明することで、参加する人が支払うお金の意味を明確にしている。
そして、スカラシップ(奨学金)。
参加費を用意することが難しい方へのスカラシップ(奨学金)の試みのため、参加費部分は98,000円〜150,000円のスライディングスケールとし、98,000円より多く預かった分は、スカラシップ希望の方の支援に使わせてもらいたいと思います。
参加費以上を払える人から多く預かることで、共鳴するけれど経済的な事情で参加できない人のための門戸を開く。
主催者をしている視点からは、いいなあと思う。すごく。
でも、参加者として考えると、ドネーションにしても、スカラシップにしても、自分でいくらかを考えて決めなければならない。その意味では、ちょっとめんどくさい。
それにワークショップの最後にドネーションするとなると、そこで自分とお金のことに直面せざるを得ない。
いくら払いたいのか。いくらなら払えるのか。
それを問われるのは、なかなか厳しい場だなとも思う。
だからこそ、案内文では、そのあたりを実に丁寧に説明している。
長文になるけれど、紹介したい。
なぜ決まった金額として、シンプルな参加費として設定していないかというと、まず、「お金の価値は人それぞれに相対的に異なる」ことを含みたい願いがあるためです。
「一万円」というお金があったときに、その価値は、その人の経済的な状況によって変わります。ある参加費に設定したときに、それを高額だと感じる人と、気軽に払える金額だと感じる人がいるということだと思います。
こうした学びの機会に参加したい想いの強さを比べることはできず、どの方の中に生まれた夢も、希望も、インスピレーションも、どれも尊いもので、私たちはどれも大切にしたい。
願わくば、「経済的な理由で参加したい想いが叶えられない」ということを、できるだけ避けたいと思っているのです。
その経済的な状況がある経緯には、例えば多く持っている人はそれだけのエネルギーを注いだからだともいえるため、それによって参加費が自動的に高くなってしまうのは、それもまた不公平を生んでしまうかもしれません。
同時に、生まれた場所や家族の状態、生まれ育った環境や、そのころ世界がどんな傾向を持っていたか、といった無数の要素が複雑に影響し合い、ある人の経済的なポテンシャルにポジティブあるいはネガティブに働いていると思います。
そして、私たちを含め社会変革や社会的な活動をしている人というのは、お金を生み出すのに使えるエネルギーや時間を活動に注いでいることによって、経済的な面で課題を抱えている方が多いように感じています。
加えて、より効果的な活動をしていくために、さらなる学びのニーズも強く、学びのための投資をし続けたいのだということも。
さらに、こうした長期の機会は遠隔地で移動にお金がかかり、宿泊と食事にまつわる費用もあり、仕事ができる機会を長期間手放すことにもなるため、参加のハードルはどうしても高くなることを悩ましく思っています。
こうした背景と同時に、ファシリテーターのひとりひとりがこれまで学び、探求し、研鑽してきた、膨大な時間と心の動きとエネルギーと投資が、その価値を十分に受け取られ報われることも、同じくらい大切にできたらと思っています。
それが、果たしてお金にしていくらなのかということはわかりませんし、決まった値段をつけることのできないものだとも感じています。
そして、ファシリテーターのひとりひとりがこれからも学び続け、世界へのはたらきかけを続けていくために、少なくとも当面の社会の中では、お金が必要なことは確かです。
今回の呼びかけに共鳴してくれた人には、経済状況によらず、この場を分かち合いたい。
私たちの持続可能性のためにはある程度のお金は必要だ。
世界のリソースに頼ってみる試みとして、お金に余裕のある人には多く出してもらうことをリクエストしてみてもいいかもしれない。
そうした逡巡の中、この参加費とお金にまつわるリクエストをすることにしました。
よくこんなに分かりやすく、全部を書いたねえ、と感心する。
「逡巡」とあるが、まさにそう。
逡巡って、こんなふうにいくつもの「心から思っていること」がそれぞれに矛盾しながら存在している状態を指すのだと思う。
真面目に考えると、お金のことって逡巡せざるをえない。
そのことを明らかにしてくれた「参加費について」の文章と対話させてもらうことで、僕はあることに気がついた。
それは「お金」について考えることが、人を孤独にするのかもしれないということ。
いくら払いたいのか。いくらなら払えるのか。
それを考えるとき、僕はいつも一人だ。
当たり前だ。「自分のお金」のことなんだから。他の人は関係ない。
と、つい思ってしまう。
で、少なくしか払えない自分を恥ずかしく思ったり、見栄を張って多く払いすぎてしまったり、そこには自分が如実に出る。痛みがあるし、悲しみもある。そういうところに、なかなか他人は立ち入れない。
でも、その逡巡を共にできたとしたら?
いくら払いたいのか。いくらなら払えるのか。
という参加者の逡巡と
いくらもらいたいのか。いくらなら来てくれるのか。
という主催者の逡巡は、とてもよく似ている。
それらを互いが孤独に考えるのではなく、状況を、痛みを分かち合いながら接点を見いだせていけたとしたら。
この案内文の「参加費について」の項目には「 - チームの対話を代表して - 」という言葉が付記されている。
「ああ、その逡巡を他の人と分かち合いながら歩んでいるチームなんだな」と思って、僕は心からうらやましく思った。
それさえあれば、と思うほどに。
お金が人と人とを分離し、孤独にするのではなく、新たに結びつける働きをするのだとしたら。
この案内文を読み、考えを文章にすることで、そんな未来がちらっと見えた気がした。本当にありがたい。