父と子

いまは一つ、結果がほしい。

基本的に人生は、結果よりもプロセスを大事にした方が幸せだと思う。

結果が未来なのに対し、プロセスは現在の積み重ねだから。
結果は出るまでつらいのに対し、プロセスは一歩一歩を喜んでいけるから。
結果は人や自分を責める理由になるのに対し、プロセスは褒め合いながら歩んでいけるから。

そう思って生きてきた。だから、僕の人生はおおむね幸せだったと思う。

それでも、いまは一つ、結果がほしい。
具体的には、11月24日(土曜日)の『魂うた®️』を七名満席にしたい。

なぜか。

結果がなければ、変わらない物事があるからだ。

「人生、最後は金だ」

と、父は言う。

口癖のようにそう言うのを聞いて、僕はいつも寂しい思いをしていた。そう言っている父が、ちっとも幸せそうに見えなかったからだ。

お金がなければ、老後、入れる施設がなくなる。
入れる施設がなくなれば、きちんとしたケアが受けられない。

年金はおそらくもらえなくなるだろう。
誰かに頼ることもできず、不自由になり、身寄りもなく、孤独死するしかない。それはとても悲惨なことだ。

そうしたストーリーを父は何度も語る。
そして、マンションの管理人の仕事を通して、孤独死の現場に立ち会ったりもしている。

僕はそういう父の考え方に、いつも抵抗してきた。
「最後はお金じゃない。人間関係だ」と。

そして、負け続けてきた。
「最後はお金だ」と信じている人は、お金を見るまでは相手を信用しないからだ。

抵抗して、抵抗して、負け続けて、僕は「お金なんかいらない」という考えに逃げた。NPOに足を運んだのには、そういう理由もある。

NPOなら「お金」とか「稼ぐ」とか言われなくてもいいと思った。
そして実際、そういう圧力が弱い世界は、健やかでやわらかく、居心地がよかった。そこには人の交流があり、ぬくもりがあった。

結果よりもプロセスだ。お金よりも人間関係だ。
僕はますます自分の考えに固執するようになった。

そういう姿勢を周りは許さなかった。
特に妻は、はっきりと僕に「稼ぐこと」を求めた。

そしていま、彼女に対しても、父に対しても、僕は「お金」の形で結果を示す必要に迫られている。

でも、それだけではない。
結果という説得力は、それよりも大きなものに対しても必要になってきている。

それは、僕が経験し、信じていることを、まわりにも信じてもらうためだ。

人は、本質とつながることによって、人生を自らの手で切り拓いていける存在だ。

男は「男になる」ことで、女性も家族も社会もしあわせにできる存在に生まれ変わる。

人と人とは大変なこともあるけれど、もっと関わりあい、磨き合うことで、お互いをいかしあうことができる。

そうして、僕たちはプロセスを犠牲にせずに「好きなこと」を通して、結果を出すことができる。

「最後はお金」と選択を強いられるのではなく、「お金も人間関係も」豊かにある人生を切り拓くことができる。

僕はこうした考えを信じている。けれど、現実がそうなっていなければ、中学生がイキっているのと変わりがない。

実現する力がない者の大風呂敷は「なにを言っているんだ」とバカにされて終わる。のみならず、その考えが本当かもしれないのに、信憑性を下げる。

「やっぱりダメだったじゃないか」

と言われることによって。

僕は自分の信じる人生をつくろうとして、何度も失敗した。
そのたびに父にお金を借り、いま、多額の借金がある。

僕の存在は、父の「やっぱりダメだったじゃないか」を強化し続けてきた。結果を出せないこと、稼げないことによって、父の信念は信憑性を増している。

僕はずっと父のことが好きだった。うまく関われなくても、考えが違っていても、生まれたときからずっと会社員として働いて、まっとうして、特にお金のかたちで、僕たち家族を支えてくれた父を尊敬している。

だからこそ「最後はお金だ」という父がいやだった。アンタはそんな人じゃないだろう、と思った。そして誰よりも献身的に会社を愛し、尽くした父が役職定年になり、出向することになり、会社から「いらない人」として扱われて元気を失っていくのを見るのはつらかった。

「やっぱり違う」

僕はいまでもそう思う。
そんなふうに生きた人が、こんな思いをしていいわけがない。

『魂うた』をはじめとする自分の仕事をするようになって、気づいたことがある。それは、自分が経験し、信じるに至ったことが、いまはまだ常識ではないということだ。

思ったよりも伝わっていない。
変わったことを言う人として見られる。
時には恐れられる。

僕にとっては「当たり前」のことが、まわりにとってはそうではなかった。そこにありありとあるのに、他の人には見えていないみたいだった。

だから僕は「ほらね」とわかる形で見せる必要がある。
もちろん、歪んだ考えだっていくらでも持っているから、間違いを冒しては修正してを繰り返しながらだけれども。

父が「最後はお金だ」というときの「お金」は、「愛」という言葉の間違いじゃないかなと僕は思っている。僕が父から受け取ったお金は、「がんばれよ」とか「負けるな」とか、そういう気持ちがいっぱいに込もっていたから。

あんなにしょんぼりしているのは、たぶんそのことが自分では分かっていないからだと思う。

だから、僕は鏡になって「ほらね」と見せてあげる必要がある。
あなたから流れてきたものは、こんなかたちになりましたよ、と。

そして、それがあなたですよと。

僕の仕事は、人の中にある本質を、強さを、愛を、鏡となって「ほらね」と示す仕事だ。

あなたが誰で、なんのために生きてるか。
それを見失っている人のために。

だから、僕にはあなたに信じてもらうための結果が必要だ。
あなたの世界の中でかたく信じられているそれを覆すには、奇術師よろしくそれを変えて見せる必要がある。

いまは一つ、結果がほしい。
そして、それを積み重ねていくことで、きっとあなたにも見えるようになるはずだ。

僕がなにを言っていたのかを。
僕がなにを信じてきたのかを。

そして、生まれたときからずっと、僕がなにを見ていたのかを。

それを伝えたい。

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澤 祐典
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