人を勇気づけるのは誰かの栄光なんかじゃない。その逆だ。
今日はオンラインの『空中庭園』の日で、予定をオーバーして通話を楽しんだ。
そこで話題になったのが、僕らの尊敬する人が「そうでもなかった時期」のこと。
まだ何者でもなく、周りに証明できるものもない。自分でも「これでいいのか」と揺れながら、しかし足は未知へと進んでいってしまう。そんな暗中模索の時期の、乱暴にいえば「体たらく」の話。
その姿はその人のすごさなんかよりずっと、僕らを勇気づけた。そして、五年前に自営業をはじめて以来の僕自身の「体たらく」をも照らしてくれた。
当初の僕の予定ではすぐさま売上が上がり、経済的に安定した「立派なフリーランス」になる予定だった。まさか開業後、奥さんに叱責されながら、こんなにも長く鳴かず飛ばずの時期を過ごすことになろうとは。
「売れない芸人みたいになったらやだな」と思っていたけれど、まさしくそうなった。ジリ貧はつづき、あてもないのに「次はうまくいく」と強がってみたり、暴走して訳の分からないビジネスセミナーに大枚をはたいたり、ひどいもんだった。
それでも安定したサラリーマンをやめ、「こっちだ」という方向に歩みを進めたことで、心身は次第に健やかになっていった。こないだ十年前に知り合った友だちとズーム飲み会をしたときに「若返った」と言われたけれど、わかるような気がした。
いまもさほど状況は変わっていない。経済的には「売れない芸人」みたいだし、アルバイトだって続けている。零細もいいところで、ぜんぜん「立派なフリーランス」じゃない。
それでも、なぜだろう。気持ちの上での明るさは日を追うごとに増している。「こっちになにかいいことがありそうだ」という予感もどんどん確信に変わってきている。
と、まぁちょっと「よさげな話」に流れてしまったけれど、とにかく尊敬する人のかつての「体たらく」は僕たちをとても勇気づけたのだった。
人は誰かの立派なところを崇めたがるし、その立派な人は高いところから「好きなことをやりなさい」なんて言ったりする。けれど、本当に人を勇気づけたり、力を与えたりするのは、心のご本尊に大事に置かれるべきなのは、誰かの栄光じゃなくて、むしろ「体たらく」の姿かもしれない。
「体たらく」の話を聞きながら、そんなことを思った。
そして、ますますその人への尊敬の念が増した。