伴奏冥利。
ライブ『みんなのうた』は、文化の日の3日に終わったのだけれど、参加した方が次々に感想をアップしてくれたので、余韻が消えないままでいる。
その中に「言葉にならない」「言語化不能」というコメントがあって、そうだよなぁと思いながら読んだ。
たった三時間とは思えないほど、いろんなことがあったから。
そんな中でも、僕自身は『あなたのうた』を頼んでくださったご本人が歌うコーナーで、伴奏をした手ごたえが忘れがたい。
一人一人のまったく違う歌い方、歌い回しに寄り添うようにして付いていく伴奏は、いずれもかなりの集中を必要とした。
それは、指先と指先を触れあって、そこにある微細な振れについていく「影舞」という舞に似ていた。
歌う彼女たちと僕は、指先は触れていないけれど「音」で触れている感じがした。
彼女たちの歌声の動きに、振れに、ギターの音でついていく。
ここぞ、というところでは、僕もギターをがんとかき鳴らし、音楽をリードする。
心地よい緊張感の中で交わされるそんなやりとりは、すこぶる楽しかったし、その経験を通して、一人一人の人となりが感じられた気がした。
唄ったのがカバー曲ではなく、自分の語りから生まれた『あなたのうた』だったから、歌への入り込み方も違ったのだと思う。
それは、本当に「言語化不能」な数分間になった。
15分のお話をうかがう時にしている「未二観(みにかん)」の未二は「いまだ二つに分かれない」という意味をもつけれど、伴奏して音に集中しているとき、僕はその未二の時間の中にいたような感じがした。
唄っている彼女でも、僕でもない「あなた(彼方)」に。
「あなた」という言葉は、古文では、人より前に場所や時間を指す。
「山のあなた」という時には「むこう」という意味になるし、時間的な「あなた」は、過去や未来を表す。いずれも「遠く」という意味だ。
その「あなた」に、伴奏しながら僕は行って触れたような気がする。
そのときの感じ、「あれは、なんだったんだろう。どこだったんだろう」と振り返りたくなる手ごたえが、あの日のライブの「言語化不能」な部分に重なっているのではないか、という気がしてならない。
またやりたいな、伴奏。めちゃくちゃ楽しかった。