流れてどこどこ行くの。
『南畑美術散歩』の記事執筆に "全集中" しすぎたせいか、体調を崩して早退してしまった。頭痛がして、気分が悪い。『鬼滅の刃』の炭治郎のような不甲斐なさを感じつつ、ひたすら寝た。
病める時というのは、自分の中の暗い発想が表に出てきやすいときなのだろう。なんとなくこのところ日々に付きまとっていた「ままならなさを嘆く気持ち」が浮き上がってきた。
数日前にこんなことを書いたが、
僕たちはいったいどこに流れていくのだろう。
流されるばかりの人生なのに、そこになんの意味があるのだろう。
その答えは杳としてしれない。
川に流されるような人生は、思い通りになどいかない。
楽しみがないわけでもないし、幸せだとも思う。思いがけない出会いだってある。
けれど、心のどこかで「目的地にはたどり着けないのではないか」という、なんとも言えない悲しさを感じる。無力感といってもいいだろうか。その目的地がどこかも分からないのだけれど。
川は流れて どこどこ行くの
人も流れて どこどこ行くの
そんな流れが つくころには
花として 花として 咲かせてあげたい
(嘉納昌吉『花』より)
花として咲いたとき、私たちはどんな姿でいるのだろうか。
そして、それはいつ訪れるのだろう。いつまで待てばいいのか。
泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ
泣きなさい 笑いなさい
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ
歌はいつでも、その悲しみを湛えているように思う。
それが十分染み込むように、僕らには陰の時間があるのかもしれない。
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