専念をゆるされた者。
昨日、『ありのままがあるところ』という本についてのオンライン読書会に参加した。
鹿児島の「しょうぶ学園」という障がい者施設の園長先生が書いた本。
内容はこの記事を読むとだいたいわかる。
この本についての読書会はこれまで二回やって、昨日が最終回。
僕以外の二人が同じように「生きることを問われる」と言っていたのが印象的だった。しょうぶ学園の利用者さんの「したいことに専念する」姿からそんなことを思ったのだそうだ。
たとえば、きりで板に穴をあける。たとえば、針と糸で縫い物をする。
その時、なにかをつくろうとするのでも売ろうとするのでもなく、ただただその「穴をあける」「布を縫う」という行為に没頭し、そこに至福を見いだせること。利用者さんのそうした姿は確かに「したいことに専念している」ように映る。
対して、僕たち「健常」と呼ばれる人たちは、目標や結果を求めるあまりに行為そのものに没頭することが難しい。
僕らも彼らのように、行為している時間そのものを楽しんでやろうとするわけですが、狙えば狙うほどできないんです。どうしても左脳的な部分で、最後にはいくらで売れるだろうかということを考えてしまう自分がみじめになってくるわけですよ(笑)
だから、目的を持たずに行為するというのはめっちゃ素敵なことだと僕は思っているわけ。それを身をもって体感できるか、憧れや嫉妬、みじめさを感じながらも、彼らに尊敬の念を持って接することができるかっていうためにもね、自分がものを作らないといけないよっていう話を僕はするんですよ。
とは、著者の福森伸さんの言葉。
読書会での二人の発言も重ねながら、たしかになあと思った。
でも、僕自身は別のことを考えていた。
それは「どうして彼らは専念することをゆるされたのだろう?」ということだった。
しょうぶ学園にいる障がい者は、他の場所の障がい者とは違う待遇を得ている。たとえばいま、僕がアルバイトをしている施設の障がい者の人たちは工房でアートの制作をする時間も機会も環境もない。そして、それはわりとふつうのことだと思う。
この差はなんだ?と思ったのだ。
本でも記事でも「目的をもたない」と強調されているわけだから、彼らが特別な努力をしたわけではなかろう。しょうぶ学園に入るのに選抜試験があったわけでもないし、ただその地域に住んでいただけだ。
にもかかわらず、しょうぶ学園の利用者は、健常と言われる僕たちがうらやむような没頭を可能にする環境を得ている。
僕にとってそれはイチローのようなプロ野球選手やスピッツのようなアーティストに似ているように思える。
彼らもバットを振ることや曲をつくることに専念できる。そのためにたくさんのスタッフがいて、売ることや契約のことや体のコンディションのことやあれこれをサポートしてくれている。
一方、僕たちはそのことに専念する前に、家事や仕事などのあれこれをこなさなければならない。それにいざ時間ができても、あれもしたいこれもしたいと迷ってしまう。内的にも外的にも専念するための時間と環境をもつことがとても難しい。
専念できる環境があること。しょうぶ学園に出会えたこと。
そのことがつくづくうらやましいなと思った。
たとえ誰も見ていなくても、誰にも求められていなくても、彼らは今日も明日も絵を描き、糸を通す。数多の芸術家や修行僧が目指した「無」の境地に、ナチュラルに到達してしまっている。そんな彼らを見て、嫉妬や羨望の念を抱く表現者も多いという(これを書いている僕もその一人だ)。
と記事を書いたライターさんは言う。
でも、僕が嫉妬や羨望の念を向けるのは「専念をゆるされている」というその幸運に対してだ。
そしておそらく、僕や他の人たちの羨望をまったく意に介さないまま、しょうぶ学園の利用者さん達は今日も板に穴をあけ、布を縫うのだと思う。