勝手知ったるうちのメシ。
三泊四日の旅行中、外食が続いたからか、ひさしぶりにうちでごはんを食べて「落ち着くなあ!」と驚いた。
「ごはんは、つくった人のエネルギーを食べている」と友人が言っていたが本当にそう。顔が見えない外食が続いた後の奥さんの手料理には、家に帰ってきた時と似た安心感があった。
そういえば、僕が好きなお店は、決まって店員さんの顔が見える。「あの店のあの人」と顔が思い浮かぶお店では、人と人として関わっている感じがするし、物を勧められてもいやじゃない。むしろ、勧めてもらえたことがその品物の値打ちに入ってくる。
たとえば食べ物屋なら表立っては語られない人柄や思いまでいっしょに食べている。それは店構えやメニューボード、食器やトイレの内装なんかからにじみ出ている。
逆に何の個性も感じないお店では、どんなにおしゃれでも心がしん、としてしまう。なにかを勧められることは「営業臭」がぷんぷんして鬱陶しい。そういう人たちは、まるでフェイスシールドをしているみたいに顔が見えないのに近づいてくるから、早くその場を立ち去りたくなる。
なのに、僕らは日常的に「匿名」であることを好んでいる。
たとえば、家を借りるときに前に住んでいた人の情報は一切語られないし、誰も触ったことのない新築が一番いいものとされる。
社会に出ると、仕事とは「匿名」の「不特定多数」とのコミュニケーションだと教わる。このブログもそうだけれど、顔の見えない「みんな」に向けて広く書くなんて、かつてはプロの書き手しかしなかったはずだ。
それをいまは SNS を通して誰もがやっている。結果、中空に浮いているような不思議な質感をまとった言葉がたくさん浮遊している(「つぶやき」ってぴったりの言い方だと思う)。
僕はといえば、年々「特定」「少数」との関わりを好むようになり、マスをググッと動かそうとする言質から距離をとるようになってきている。そこにある温度や息づかいからしか感じられないものに惹かれる。それは勝手知ったるうちのメシのような安心感をもたらす。
自分の目の前の実人生、顔の見える身近な人たちが教えてくれるものの芳醇さ。それに気づくまでに、僕はずいぶん時間をかけてしまった。
それまでの自分は「不特定多数」に向けた情報にあおられて、目の前の人生から目をそらし、自分ではない誰かになろうとしていたのだ。