海の底で私たちは地続きである。
内田樹さんは、昔から好きな作家さんだったけれど、最近さらに自分の体験に接近してきた感覚がある。
鷲田清一さんとの共著『大人のいない国』(文春文庫、二〇一三年)
は、もともとこの記事で「大人になること」について考えたことから手に取ったものだった。
けれど、実際に響いたところは、むしろ「きくこと」や「うたうこと」に関わる箇所だった。長くなるが、備忘録として抜き書きしておく。
人々がその「かけがえのなさ」に気づかず、蔑ろにしているものに注意を促し、その隠されていた価値を再認識させる言葉の働きを古い漢語では「祝」と呼ぶ。
たとえば「国誉め」というのがそうである。(中略)「国誉め」は中国の古詩分類では「賦」に含まれるだろう。白川静は「賦」の本質について梅原猛に対してこう説明している。
「単に歌うことが目的ではなくて、歌うことによってその対象が持っておる内的な生命力というものを、自分と共通のものにする、自分の中へ取り入れる。
例えば、病気になったという場合にね、大河の流れの凄まじい姿だとか、海の波打つ姿だとかね、花の咲き乱れる姿だとか、そういうものを文学的に色々美しく歌い上げる。それによってその病気を治すというやり方があるんですよ。
(中略)歌い上げた言葉の力でそういう歌われたものと、いわば霊的に交通する力が生まれて、それがこっちの方に作用して、病気が治るというね。そういうものが本来の『賦』なんです。」(白川静、梅原猛『呪の思想』平凡社・二〇〇二年)
歌うことによって、私たちがなにげなく享受している「よきもの」を讃え、その讃えられた当のものがその潜在的な力能を賦活されたとき、その恩沢に浴するというのが「祝」の構造である。
「国誉め」は古代中国や万葉集の時代のものではない。「右に見える競馬場 左はビール工場」と歌ったユーミンの『中央フリーウェイ』も、『江ノ島が見えてきた 俺の家も近い」と歌ったサザンの『勝手にシンドバッド』も、その語の語源的な意味における「国誉め」であり「祝歌」である(だから「国民的歌謡」として記憶されるのである)。
歌うことによって、その対象が潜在させている霊的な力を増幅させるとき、歌い手が「誰であるか」ということには副次的な重要性しかない。というのは賦活された霊的生命の恩沢は周囲全域に漲るからである。自分のなした「祝」の効果であるから、その恩沢は私ひとりが独占すべきものである、というような排他的な心ばえのものはそもそも「祝」とは無縁である。
中央フリーウェイも、江ノ島も、それを歌うことで讃え、霊的に交通し、その内的な生命力を増幅させて、その恩沢に浴する。その恩沢は周囲全域にみなぎる。
これが「歌うこと」であり「ライブ」なのかもしれない、と思った。
歌われる対象の霊的な力を増幅し、みんなでその恩恵に浴する。だから、良質のライブの後はスポーツの後とか風呂上がりみたいに、みんなが口々に「よかったね」「気持ちよかったね」と感嘆しながら帰る。
歌についていえば、能の謡を例にしたこんな語りもあった。
名曲の謡だと、声帯だけじゃなくて、内臓も腹腔も胸腔も頭骨も尾骨も、あらゆる身体部位が共振し始めます。どんどん発生に参加する要素が増えてきて、倍音が深まる。つまらない謡というのは、いくら全身で謡おうと思っても謡えない。声帯だけになってしまう。
謡の技量だけじゃないんです。いい曲はほんとうに腹の底から声が出て、骨が喜んで歌い出すんですよ。骨はわかるんですよ、曲の善し悪しが。
骨がよろこぶ曲。
これは作曲をする上で目標にしてもいい言葉だと思った。
日常会話と曲の違うところは、発声したときの快感に重きを置く点だ。
時には、語呂の合った言葉一つを残すために曲全体のストーリーが変わってしまうことすらある。そのぐらい「身体に響くかどうか」は歌にとって大事なことだ。
実際のところ、僕たちは日常会話においてもそれをやっているのかもしれない。意味は二の次にして「こんなふうに言いたい」という言いまわしで言いたくなってしまう。「言いたいだけ」と突っ込まれるようなときがそうだ。僕だけだろうか?
そして、読めば読むほど、「きくこと」の師匠、橋本久仁彦さんの場で学び、経験していることとの重なりを感じてしまう。
先の「歌うことによって、その対象が潜在させている霊的な力を増幅させるとき、賦活された霊的生命の恩沢は周囲全域に漲る」という「祝」は、指先をそっと重ねて舞う「影舞」をしたときにもよく起こっている。
さらに、武道について解説したこの部分は、橋本さんの場で語られることとまるっきり同じじゃないかと驚いた。
体感が同期する。身体を同化的に使うというのが、武道のいちばんの醍醐味です。
「場を主宰する」という言い方をするんですけれど、それは自分に対立する他者を力で押さえ込むとか制するとかいうこととは違うんです。同化しちゃうんです。相手の身体を自分の身体の延長のように感じる。
だから、もう自分の身体なんだか、他人の身体なんだか境界が不分明になって、一つの身体になる。(中略)二人で一つの身体を作り上げて、それを僕が制御している。
そのためには、自分の体感を相手に送りつけるだけじゃなくて、相手の体感も拾いあげたりすくい取る。こちらの色とか模様とかを相手の身体に送り込んで、お互いの色や柄を合わせてしまうような感じです。ぱっとこう、二人の身体が一色に染まるんです。他者の身体と自分の身体が相互侵入して、それを動かしていく。
(中略)
海の上に島が二個あるような感じですね。水位が高いと二つ別々の島だけれど、海の下に潜ると地続きになっている。
これは橋本さんが円坐の主宰である「守人」の姿勢について語ったことと実によく似ている。
円坐守人の「辿り」は、言葉を聞いて「理解する⇒反応する」という対象化を離れ、その言葉に成って(憑って)、「その人」という出来事に参入することである。すなわちその人に「成り重なり」、対象的に理解する自分を失うこと。
樹さんの例えで言えば、海の下の地続きのところまで潜って、境界が不分明な一つの身体になること。橋本さんの言い方でいえば、相手という出来事に参入し、その人に成り重なること。
それが未二観が「未だ二つにならず」と名付けられていることとも符合するし、おそらく橋本さんのすべての仕事に通底しているのだろう。
こういうことを考えているとき、僕はとても充実した気持ちになる。
いろんな人の言葉を頼りにして、頂に一歩近づけたような心境だ。
でも、もしかしたらそれは頂ではなく、海溝なのかもしれない。
地続きになっているその場所で出逢いたい。
そんな気持ちを僕も持っているのかもしれないな。
昨日この記事に書いた通り、僕は気づいたらいっぱい場をひらこうとしていた。
たとえば「うたうこと」だけに絞ったらどうかと言われたし、自分でも考えてもみたが、そうしなかったのは、この全部が「同じこと」を指し示しているからなのだろう。
それは「不思議」と僕が呼んでいるものであり、霊的な交通であり、生命力の賦活であり、「その人」という出来事に参入することであり、地続きの場所で出会うことでもある。
そういうものが「ある」ということを僕は知っていて、それを誰かに伝えたり、分かち合ったりしたくてたまらないようなのである。
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