劇場版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』を観て感じた、物語という“呪い”の話
フィクションって、考えてみたら結構不思議ですよね。
まず本当の話ではない。誰かが考えた嘘の話を、存在しない人物を動かしてまるで本物であるかのように見せてくる。
TVアニメなら30分、ドラマなら1時間、映画なら2時間くらい。キャラクター達はその枠の中で酷い目に遭い、恋をし、死に、何かを成し遂げる。僕らはそれを観て感動したり笑ったり、つまんねーと言ってみたり。
そして作品が終われば僕らはまた日常に戻っていくわけですがーー。
というところで、この間『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』をサブスクで観てみました。友達から勧められて去年の末ぐらいからTVシリーズを観始めまして、まあ正直6話ぐらいまでつまんねーアニメだな〜と思ったんですが(笑)7話で一気に逆転しましたね。
劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト
ストーリーを少し説明しますと、まずこの作品のキャラクター達は全員演劇のプロを志している女の子達。主人公の愛城華恋は落ちこぼれで、頻繁に寝坊して来るなどあんまり真面目な生徒でもなかった。
それが幼馴染の天才・神楽ひかりが転校してくる事で意識が変わっていき、また夜な夜な行われるオーディションに飛び入り参加する事で運命が大きく変わっていく…と、そのようなお話であります。
オーディションに合格した一人のみが理想の舞台を演じられる権利を持つ事ができ、負けた者は演劇に対する情熱を奪われてしまうというルールなのですが…まあ4年前のアニメですからネタバレしますと、7話でキャラクター達が同じ1年間をずっと繰り返していた事が発覚するんですよ。
メインキャラの一人に大場ななという女の子がいるんですが、彼女は1年生の時にみんなで公演したスタァライトという舞台を忘れられずにいた。2年生に進級し夢を諦める生徒、落ちこぼれる生徒などが出始める中、大場ななは同じキャストで同じ舞台を演じ続ける為にオーディションに勝利しまくり、タイムループを続けていたんですね。
でもそこにイレギュラーとなる神楽ひかりが現れた。オーディションを主催している謎のキリンがいるんですが、現状を打破する為にそのキリンがイギリスにいた神楽ひかりを呼び寄せたわけです。
で本当なら神楽ひかりに勝ってもらおうと思っていたのですが、そこにさらなるイレギュラーである愛城華恋の覚醒が加わったと。そうなる事でどんどんと物語が混沌としていくわけですが。
これは僕個人の意見なんですが、『少女☆歌劇レヴュースタァライト』って物語もへったくれもないんですよ。というか、個別のストーリーを進めていた1〜6話が結構退屈だったり、9話以降も突出した魅力はないように感じる。
しかし、7〜8話は他の追随を許さないくらい突出して面白い。
それは僕が思うに、創作はそれ自体が1つの呪いであるという監督さんの意図がちゃんと見えるからなんです。
・ビューティフルドリーマー、ウテナ、まどマギ、シンエヴァ…“呪い”の歴史
監督の古川知宏という方をレヴュースタァライトで知るまで存じ上げなかったのですが、2話くらいまで視聴して、「これもしかして…」と思い調べてみたら経歴で納得しまして。
『少女革命ウテナ』や『輪るピングドラム』、『ユリ熊嵐』などの監督をされた幾原邦彦さんという方がいらっしゃるのですが、古川さんは経歴を見る限り幾原さんの弟子のような方。
幾原監督の作品、特に『少女革命ウテナ』を観た方ならわかると思うのですが、ウテナって徹底的にメタフィクションじゃないですか。幼い頃に両親を失くし絶望しているところを見知らぬ王子様に助けられた天上ウテナ。そんな彼女が学園で夜に行われている決闘で姫宮アンシーという女の子を助けた事で混沌に巻き込まれていく…というお話なのですが。
少女革命ウテナ
まあこんなもん他の人も散々擦ってるとは思うのですが、まあ似てるじゃないですか。更に『少女革命ウテナ』はTVシリーズの終盤に世界の謎が解き明かされ、姫宮アンシーが実は呪われた存在である事。学園内では時が止まっており、姫宮アンシーとその兄の理事長がすべてをコントロールしていた事が明らかにされていく。
もっと言えば学園から出ていった者は例えどんな人気者であっても忘れ去られてしまったり、普通に歳を取ってしまう。最後は主人公の天上ウテナも世界から完全に排除されてしまうわけですが。
何が言いたいかと言うと、『少女革命ウテナ』はアニメ自体を時間に閉じ込められた呪われた世界として扱ってるんですよ。
で、『少女☆歌劇レヴュースタァライト』に戻ります(笑)
先程も書いたように、7話で大場ななが延々と同じ1年間を繰り返させていた事が明かされます。しかしそこに現れた神楽ひかりによって運命が変わっていく。
つまり大場ななは姫宮アンシーであり、神楽ひかりは天上ウテナなんですよ。
そう聞くと「パクったのか」と勘違いされてしまう方もいるかもしれませんが、その上でこの作品が凄いのは、ちゃんと師匠を超えようとしているところなんですよ。
主人公の愛城華恋は実力もなければやる気もない、落ちこぼれの女の子でした。それが神楽ひかりの登場によって大きく成長していく。こういうキャラクターはまず『少女革命ウテナ』にはいなかった。
更に『少女革命ウテナ』ではアニメという呪われた世界を否定し、最後姫宮アンシーが世界を捨てて学園を去る。物語からの脱出を図るんですね。でも『少女☆歌劇レヴュースタァライト』は違くて。
なんとこの作品、呪われた世界を受け入れちゃうんですよね。
それが劇場版でちゃんと描かれていて、衝撃的だったんすよ。
元々物語という構造そのものを批判的に描く作品というのは10年に一度くらいの間隔で生み出されていました。代表的なのが押井守監督の代表作『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』であったり庵野秀明監督の『シン・エヴァンゲリオン』。新房昭之監督の『魔法少女まどか☆マギカ』なんかもそうですよね。
『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』では押井監督がギャグ漫画の構造そのものを批判的に描き、当時のアニメファンに衝撃を与えたそうです。宇宙の中に浮かぶ友引町。消えていくキャラクター。ヒロインのラムが無意識に世界を創造し、主人公の諸星あたるは閉ざされた世界から脱出を図る。
うる星やつら2 ビューティフルドリーマー
その11年後、庵野監督がTVアニメシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』をスタートさせました。当初は「ガンダムを超える」というコンセプトで始まったそうなのですが、気付けば庵野監督の内面をひたすら映し出す方向にシフト。この頃から映画の1シーンで観客席を映し出したりするなど、「この作品はアニメである」という歌劇な演出をされていたのですが、去年公開された『シン・エヴァンゲリオン』でついにその形を完成させたんですよ。
シン・エヴァンゲリオン
『シン・エヴァンゲリオン』では今まで行ったすべてのシーンを伏線として扱い、キャラクターとアニメから解き放ってあげる事で終焉を謀った。
でやはりここでも物語は“呪い”として扱われ、キャラクターをアニメから脱出させる形を作った。式波・アスカ・ラングレーと碇シンジの和解を『Air/まごころを君に』のラストシーンでさせたのは印象深かったですよね。
シンエヴァについてはかつてnoteで書かせていただいたので、そちらをご覧ください。
そして『魔法少女まどか☆マギカ』でも、物語の終盤でメインキャラの1人である暁美ほむらが何回も同じ時を繰り返していた事が明かされる。鹿目まどかが主人公と思われていたのが大逆転を起こすという凄い回なんですが。
しかし最後にまどかが神になる事で世界を収め存在を消し、ほむらが再びまどかを取り戻す為に動き出すところで物語は終わる。
魔法少女まどか☆マギカ
この作品ってただのタイムループモノでなくて、これまで紹介した作品と照らし合わせるとちゃんとしたメタフィクションモノ、表現が少し違うかもしれないので自分流に言うと“呪い”モノなんですよね。
ただこの3作品はそんな呪いの世界からの脱出を測ったり、犠牲になった主人公をヒロインキャラが取り戻しに行くという展開なんですが、劇場版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』はちょっと違うものを見せてくれまして。
というところで散々もったいぶりましたが(笑)今から劇場版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』を語らせていただきます。
・劇場版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』が見せてくれたメタフィクションの新しいカタチ
この映画で語られる事で僕が一番大事だと思ったのは、愛城華恋が空っぽの存在であるというところでして。
愛城華恋
彼女って、本当に自分の意志で動いていないというか。ひかりに演劇を誘われた時も消極的でしたし、ひかりがいなくなった後で演劇を続けていても「ひかりと舞台で会うため」。
こう書くと華恋に意志があるように見えるんですが、映画を見てるとどのシーンでも必ず誰かの意志が介在していて、彼女が実際どう思っているかというのが語られないまま進んでいくんですね。
一方でひかりがまどかを演劇に誘った理由はちゃんと描かれていて、他の子と華恋が遊んでいるのを見て感じた嫉妬心なんですよね。
華恋がゲーム機で他の子と遊んでいたのを見た後、「ゲームよりもっと楽しいこと知ってるんだけどな」と言って舞台公演に招待する。華恋はその時はあまり喜んでおらず、いかにも「友達が誘ってくれたから仕方なく」という風に受け取る。
でひかりはその事をずっと後悔してるような描写をされるのですが、華恋の方は演劇をやりつつも友達と遊ぶ描写なんかもされると。
要するにひかりには演劇の人生しかなかったんですが、華恋には演劇以外の人生もあったんですよ。
というのが、この映画で描かれる呪いなんです。
他のキャラにしてもそうですよね。腐れ縁が過ぎて鎖になってしまっている花柳香子と石動双葉。華恋の相方というポジションをひかりに奪われてしまった露崎まひる。主人公に選ばれたくても選ばれなくて心が折れた星見純那。未だ99期スタァライトから抜け出せない大場なな。天才が故に誰も着いてこれなかった天堂真矢と、天才に出会ってしまった西條クロディーヌ。
彼女達の関係が徹底的に“呪い”として描かれ、みんななあなあの選択をしてしまいそうになるのですが、そんな時にまたオーディションが開かれるわけです。
列車は必ず次の駅へ。では舞台は?
そして彼女達がオーディションへの参加を選ぶ時、トマトを齧るシーンが挟まれます。
トマトは禁断の果実です。禁断の果実といえば黄金のリンゴなんですが、リンゴというのは誤訳で別の果物という説もあるらしく、その中にトマトという説もあるんですよ。
でこの映画の冒頭でトマトを潰すシーンから始まったり齧ったりするシーンに意味がないわけないので、トマトを禁断の果実の象徴にしていると推測されます。
彼女達は永遠に続く物語という名の呪いから脱出を考えるのではなく、逆に禁断の果実を齧る事で呪いの世界に身を投じたんですね。
僕が詳しくないだけなのかもしれませんが、こういう展開って今まで見た事がなくって。今までのメタフィクションだとアニメという構造自体を作者が批判して、キャラクターを自由にするというのが一般的だったんですが、『少女☆歌劇レヴュースタァライト』の古川監督は、アニメの構造を肯定してるんですよね。
僕が思うにキリンは古川監督自身なんですよ。
キリンの口癖「わかります」ってあるじゃないですか。あれって古川監督の口癖らしくて。更にオーディションを開催しているのがキリンであったり、定期的にキリンだけがカメラ目線になりますよね。
キリン
カメラ目線になるのはちゃんとした意図があってですね、視聴者である僕らに語りかけているわけですよ。だから僕TVシリーズの途中までキリン=視聴者、僕らなのかなと思ったりもしたんですが、最終回でキリンがカメラ目線で僕らに語りかけてきた時に「あ、違うんだ」と。
そして劇場版の最後に野菜と化したキリンが燃え、落ちていく時に「あぁ、私も物語の一部になれた…」みたいな事言うじゃないですか。
つまり古川監督は自分が作り手であるが故にアニメの中に入れないという呪いの中にいて、劇場版でその自分を開放させたんですね。
同年に上映した『シン・エヴァンゲリオン』と本当に真逆なんですよね(笑)エヴァという世界を完全に否定してキャラクターを解放し、最後に自分自身がシンジくんになって現実世界へと脱出した庵野監督と、アニメの世界の一部になる願いを叶えて燃え尽きた古川監督。
どちらが良い悪いという話ではないのですが、古川監督の考え方は個人的には非常に好きで、新しい時代のメタフィクションを見せてくれた事に感動しましたね。
そしてクライマックスで華恋が初めて自分自身で演劇を続ける理由を見い出し、次の舞台への進んでいくところで終わるのですが、物語という“呪い”を“呪い”という風に考えない、例え呪いであってもすべてを受け入れて前に進むぞというメッセージ性を感じて非常に良かったです。
僕らのような00年以降にアニメファンになったような世代ってアニメというのは肯定するべきものであって、昔の人のようなアニメを作る葛藤とかアニメを観る後ろめたさみたいなものを感じずに育ったと思うんですよね。
だから僕らにとってアニメは呪いではなく祝福なんですよ。僕ら自身がアニメに入りたいという願望を無意識レベルで持っているし、だからこそ最近のなろう系とか少し前の日常系が流行ったと思ってるんです。
『少女☆歌劇レヴュースタァライト』というのは、そんな僕らの想いを代弁してくれる新時代のメタフィクションと言っていいかもしれません。
今回はここまでにしておきます。まあ今回この映画を見て、若い世代にカルト的な人気がある理由がわかりましたね。
こういう作品を作ってしまった以上次を作るのは非常に大変でしょうが(笑)ただこういう作品を作れたって事自体が凄い事ですし、もっと評価されるべき事なのかなと思いました。
それではまたお会いしましょう。ポジションゼロ!