おジャ魔女を使って○○を描いた映画『魔女見習いを探して』の話(ネタバレあり)
僕が子供の頃、2歳上の姉と一緒にセーラームーンシリーズを観てまして、それから『ふたりはプリキュア』くらいまでニチアサアニメをずっと観てきた僕なのですが、個人的にニチアサアニメといったらセーラームーンシリーズでもプリキュアシリーズでもないんすよ。
1999年から4年間に渡って放送していた『おジャ魔女どれみ』シリーズこそが僕にとってのニチアサアニメであって、セーラームーンになると上の世代、プリキュアになると下の世代という認識にどうしてもなってしまうんですよね。
おジャ魔女どれみ
ストーリーを簡単に紹介すると、自称"世界一不幸な美少女"こと春風どれみが、古びた店の店主を魔法使いだと見破るところから物語が始まります。
人間に見破られた魔女は呪いでカエルになってしまい、どれみはその呪いを解くために仲間と一緒に魔女見習いとして修行を始める…といったストーリーです。
90年代末期の作品だけあってニチアサであってもキャラクターは全員どこか欠落していたり影を持っていて、あんまりキャラがキラキラしていなかった。そこらへんが凄く魅力的で一期、二期あたりまではずっと追いかけてた記憶があります。
で4年くらい続いてから終わって、1年『明日のナージャ』という不遇な(笑)作品を挟んでから17年続くメガヒット作のプリキュアシリーズが始まったわけですが、今年に入っていきなりおジャ魔女の新作が出ましてね。
魔女見習いを探して
これかなり驚きまして。今更!?というのもあったんですが(笑)予告編を観てみるとどうも普通の続編ではない。
なんか予告編だけだとどれみ達が出てこなさそうだし、知らんキャラがメインだし、そもそもなんかおジャ魔女を"作品"として描いていると。
非常に楽しみにしてまして、パンデミックの影響やらで半年間延期していたのですが13日にやっと公開されたので観に行ってきたんですよ。
正直言って観るまでは面白いだろうけどnoteに書くような作品ではないと思ってたんですよね。どうやら主人公達はおジャ魔女ファンのようなのだけれど、多分おジャ魔女によって救われたり良いことが起きる映画だと。
それはそれで凄く面白いし感動もできるだろうけれど、結局「泣いた」で終わりそうだな~と思ってたんですよね。
でも違った。
正直、もしかしたら僕の考えすぎか妄想なのかもしれないとは思ってるんですが、それにしては恣意的なシーンがあったので書こうと思った次第です。話し半分で読んどいてくれたら嬉しいです(笑)
またガッツリ内容に触れるので、これから観る予定があったりネタバレが嫌な方は映画を観てから読んでいただければ幸いでございます。
それでは早速書かせていただきます。以下ネタバレ
結論から申しますと、これってアニメファンや佐藤順一監督自身それぞれの"決別"がテーマなんですよ。
映画を観ている最中、何回か「あれ?」と思ったシーンがあって、例えば川谷レイカが魔法玉を使ってお父さんを見つけるシーンで、僕は正直「あぁ、この映画はおジャ魔女というアニメがキャラそれぞれに良いことをしてあげる作品なんだな」と思ったんです。
でも実際はレイカがお父さんに会った時、「人違いではないですか?」と言われる。まあその場に現在の妻と子がいたからというのもあるんでしょうが、でもレイカと父親の関係ってそこで終わっちゃんですよね。
普通ならその場で人違いだと言っても後で親子の再会的なシーンがあると思うじゃないですか(笑)でもそれを一切作らずに、それどころかレイカはその後「父親の笑顔に似てたから」という理由で好きになったダメダメ彼氏と別れて自ら未練を断ち切るわけです。
レイカだけでなくて、メインキャラのソラやミレもおジャ魔女きっかけで幸せになったりしないんですよね。
吉月ミレは27歳のバリキャリで帰国子女。思った事をなんでも言っちゃう性格で周囲から浮いていたり嫌われている。自分が心血を注いでいたプロジェクトからも外されて左遷されてしまうのですが、そこで一発逆転で評価を上げてみんなから好かれるという事もなく、嫌われたまま会社をやめてしまう。
長瀬ソラは教師を目指している大学四年生なのですが、親が敷いたレールにただ乗っかっているだけ。発達障害児と向き合っているうちに自分で道を決めたいという気持ちが出てきて、旅先で好きになった大宮という同い年の男に告白するのですが、振られてしまう。
普通に感動的に作るのであれば、レイカはお父さんと涙の再会をすればいいしミレは会社で手柄を立てればいいしソラは好きな男性とお付き合いできた方がいいじゃないですか。
そういう展開を悉く外していってるのに対して激しい違和感を覚えたわけです。
これ、観る前に想像していたテーマとは違うんだなと。
サムネにもしたシーンって映画の一番最初のシーンなんですが、おジャ魔女のキャラクター達を子供時代のソラ、ミレ、レイカが追いかけてるんですよ。
で最後のシーンを思い出して欲しいんですけど、三人の前にどれみ達が現れて子供の三人を連れて箒で空に飛び去っていくじゃないですか。
この二つのシーンっておそらく繋がっていて、最初のシーンは悪い言い方しますけど"依存"なんですよ。子供の頃好きだった『おジャ魔女どれみ』というアニメをいつまでも引きずっている自分。キャラ個別でいうと"他人に決められた人生"から脱却できないソラ、自分を受け入れてくれない社会にイラついているミレ、子供の頃離婚していなくなった父親の影をいつまでも追っているレイカ。
三人が三人とも、悪い状況に依存しながら生きてしまってるんですね。
で面白いのが、その象徴として『おジャ魔女どれみ』を出してるんですよ。
要するにアニメで現実を変えられないんですよ。三人の成長って『おジャ魔女どれみ』がきっかけであっても最終的には自分の力で乗り越えてるんですね。
だから最後に子供の三人がどれみ達と一緒に空にいなくなるんですよ。
それを観るまでは全然わからなかったのですが、そのシーンを観た時「おぉ…」ってなっちゃって(笑)だってどれみ達って最初と最後のシーンでしか実際に出てこないんすよ。ここ以外はあくまで"アニメキャラのどれみ"としてしか出てこないというのが、なるほどね~と(笑)
一方で、『おジャ魔女どれみ』が直接影響を及ぼすシーンもないわけではないんですよ。ミレとレイカが喧嘩した後で、ミレがソラの家で『おジャ魔女どれみ』のブルーレイを鑑賞する。それがどれみとはづきが喧嘩して仲直りする回でして、それを観たミレは夜行バスで愛知から尾道に直行して仲直りするというシーンがあって、これってどういう事かと言いますと。
アニメってその作品が好きな人同士でしか影響を及ぼさないって事なんですよね。
ソラが告白した大宮も『おジャ魔女どれみ』ファンでしたよね。
これは僕が勝手に受け取っているだけかもしれないんですが、「アニメがどういうものか」というものを佐藤監督が作品の中で語っていらっしゃるのではないかと思うんです。
拡大解釈かもしれませんが、これってアニメファン全体に対してのメッセージでもあると思っていて。というのも最近アニメの寿命って長いじゃないですか。20年前、30年前のアニメが平気で今も続いていたり続編が出ている。そういうのって"依存"以外の何物でもないんですよね。続いてる以上アニメファンもいつまでも抜け出せないじゃないですか。
『魔女見習いを探して』だって安易にファンを喜ばせるなら普通にどれみ達を主人公にすれば良かった。でもあえて"ファン"を主人公にしたわけですよ。これって意味がないわけないんですよね。
どんなに長年その作品が好きでも、自分の悩みや苦しみを解放してくれない。自分と作品のキャラクターを重ね合わせても、助けてくれるわけじゃない。
身も蓋もない言い方をすると、「いつまでも子供でいないで大人になりなさい」と仰ってるんだと思います(笑)
であると同時に、その作品を好きな気持ちは否定してないんですよね。例えばソラは大宮に告白して振られますが、それがあって一つ大人になれたんですよ。そのきっかけを作ったのがミレやレイカとの出会いで、その三人をつなぎ合わせたのが『おジャ魔女どれみ』なんですね。
アニメはその人を子供から大人にしてくれない"呪い"でもあるんですが、同時に大人になるきっかけを与えてくれるものでもある。それというのは何かというと人と人との出会い。新しい価値観の発見。そこから生み出される変化なんじゃないかと思います。
…というところですかね。あとレイカが住んでるのが尾道でばりばりの広島弁キャラなんですが、これって要するに『たまゆら』ですよね(笑)『たまゆら』は竹原ですが。
このレイカに途中で尾道を捨てさせるんですが、これって監督自身の『たまゆら』との決別ですよね(笑)本人はそう思ってないかもしれませんが竹原での人間の成長を描いた『たまゆら』の真逆をやっているという点において、佐藤監督も前作に囚われてる部分があったのかなとお察ししてしまいました。
余計なお世話な上にまったくの勘違いかもしれませんが(笑)
ってところで今回は終わりにします。来週日本シリーズでまともに書けなさそうなので今日書いてみました。本当言うと二回観た方がいいんですけどね。まあ多分観ると思いますし、観て違う感想を抱いたらまた書いてみようかと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました!それではまた。
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