ドライとウェットの狭間

こんにちは、ゴトー日。15日の更新です。

突然ですが手相占いをしてもらいました。webで。
手相をみてもらった事って過去に一度占い師の方達が集まるところにいった時以来で、もうあれも本当昔って言えるくらいなので当時に比べたら多少線が変わってそうなんですけど。
当時も今も手相って定期的に勉強したくなるものでして、それはそれとしてタロットやルノルマンカードだったりも勉強してるのですが、昨今はインターネッツのおかげでそれらのお勉強も昔に比べたらたくさんの情報が比較的容易に目にする事が出来るのがいいですよね。
youtubeももちろんそれの一つなので、仕事の合間にタロット・オラクルカードリーディングを見ている時もあるんです。勉強兼ラジオ感覚なところだったりするんですが。

今時配信している人や動画投稿してる人ってそこまで珍しいものでもないですし、もう石を投げれば何らかの活動している人に当たるんじゃないのって思うんですけど、どのジャンルも結構それなりの数っていると思っていて、カードリーディングしている人もやっぱりそれなりにいる中で声が好きだったり、カードのチョイスや言葉のチョイスが好きだったり、と自分が見れる聴ける動画って全てではないのだけど。
その中の一人の方がタロット等の個人鑑定とは別に手相占いも始めたという事だったので、単純に私がその人のファンなのもあって早速申し込んでみました。

ぼかしとノイズ部分は何となく私が気恥ずかしいので入れました

鑑定結果をそのまま(ではないけれど)載せてみます。
手相の見方ってのはあるとは思いますが、自分だけで見るには知識的な意味でも限界がありますしちゃんと勉強している人にみてもらえる方が、そこはかとない安心感というか信頼感はありますよね。
あとはカードリーディングもそうですけど、リーディング動画っていうのは稀に10択以上の選択肢もありますが基本的に3択で選んで行って、その結果を読んでもらうというものが大半でして。
しかもそれは自分に対して占っているわけではなく、選択肢の中から該当するものを選択した人へ向けてのリーディングだったりするので、多少そうでもないなっていう箇所もあるのが一般的という感じです。
それでもビッタビタに自分じゃん!って思う時もあれば、当然そうでもないっていう時もあるのでエンターテイメントとして、それに触れた時のタイミングでああこのメッセージはなんか引っかかるなとかそういうもので自分を元気づけたり、注意を促したりという感覚なのに対して。
個人鑑定はやはり自分に対してなので、おお…ってなるのがいいところですね。バイアスがかかってないと言ったらいいのかしら。
ましてや手相は自分であってもそうでもなの人であっても、そこにある手相を見ればいいだけなので外れるっていう事はあまりないんじゃないのかなと、私は思っているんですけどどうなんでしょうね。

ちなみに今回見てもらった結果を読むに一番びっくりしたのが恋愛運のところで、本当に以前は自分がどう思うかっていうだけを重きに生きてたんですけどある程度の年齢を重ねてきた今となっては、見えるものも増えてきたからかそれだけではいけないなと思って行動しているわけで。
私は元々ドライな性格だと自分の事を分析していて、それは今も自分の中では変わってない自分像なんですが、家族にそう言うと「いや君はウェット寄りな方じゃない?」と返されたんですね。
でも多分それって家族に対して私がある意味改心してから接するようになっているからで、その前の私を見ていたならそういう返しはこなかったんじゃないのかなと思ったり。
別にいいも悪いもないのだけれど、少なくても家族には優しく見えるくらいに優しく接する事が出来ているという事にも繋がるのだし、そういうものかと受け止めている自分もいる。

手相からちょっと話は逸れるけれども、私は今もドライだと思っているのに対して人からしてみればそうは見られない事について、多分こういうところがあるからだろうなと予測がつくものがあって。
それは所謂”面倒臭い”人に対しての対応が甘い、というか気が長い判断をしがちだからなのかなと。
やっぱり生きていれば全く理解に苦しむ人っていうものはいて、勿論自分も誰かにそう思われている事はあるんだろうとは思うものの、それでも常識的な範囲で動いている限りそこまではみ出したりする事ってそんなにないと思っていて。
ただ、直感的に何かを感じてしまった人っていうのはいずれ近づいた距離も離れてしまいがちなのだけど、その離れるまでの判断が一般的…というか私の周りにいる人に比べたら私は遅いんですよね。
何故かと言われたらそこまで被害を被っていないからだったり、私的にはまだ許容範囲だからだったりに尽きるので、こういう言い方をしたら即座に離れる判断をした人の器が小さいだとかそういうように聞こえなくもないのだけど、そういう事じゃなくてそもそもどうでもいいからそうなんだというのが正解なんです。

なんか自分はある時からあまり怒ったりしなくなったなと意識的に思い始めたんですが、…とか言って周囲の人が私は怒りっぽいって言ってたのならまだまだ客観視出来ていないということで修行に向かうしかなくなるので割愛しますけども。

まあ簡単に今目の前に二手に別れている道があって、目的地はどちらかの道を進んだ先にあるのだけどどちらに進んでいいかわからない時。
この辺りに詳しい人を見つけ、目的地Aに進みたいのですけどどちらの道を進んだらいいですか?と尋ねた際に、こっちだよと間違った道を教えてもらったら怒るかと言ったら別に怒る気にならないんですよね。
ああ道違っていたな、と思って引き返してもう一方の道を進むだけだし、戻ったところに間違った道を教えてくれた人が残っていたとしても「教えてくれた道間違ってましたよ」という事実を伝えるくらいで。
そこでその人に「わざとやったんだよばーかばーか」なんて少々小馬鹿にされたとしたって、「あーそうなんですね、まんまと騙されちゃった」程度には返事すると思うんです。
でもこれって私自身に余裕がある時に限った話で、仮に目的地がトイレでもうのっぴきならねえっていう状態で嘘つかれたら……

……

………

うーんどうだろ怒ったのかな。
あ、もしその時に着ている服がお友達のものとかだったら怒るのかもしれない。
何かしらの被害が自分にだけくるならそんなに怒ったりしないと思う。
人に何かの迷惑をかけるかもって思ったらちょっとイラっとする…するのかなあ?どうだろそれもわからないかも。
でももし目的に対して妨害をする人がいたらイラッとはするけど、声を荒げて怒ったりもしないと思うし回避して対処しようとは思う。その妨害が幾度となく繰り返し行われるのなら、その時怒りというよりかは切り捨てるという方向にシフトする。

多分これが離れるっていう判断に該当するんだけど、そこに行くまで色々と相手を知ろうとする?分析しようとするから、その行動の理由なり根本が何なのか納得出来ないと離れた方がいいだろうという判断が自分なりに正しいと分かっていても、行動にすぐ移す事はないんだと思う。
だからそういう状態で私は人と接しているというのを分かっていない、他者から見た私という人間は懐の深い人間であるからドライではなくウェットなんだというイメージになるのかもと思うんですけど。
自分の興味が満たされたらすっと離れるだけで、それまでは優しく他の人と同じように分け隔てなく接するから変な人が寄ってきやすいとよくいわれるのだなと、思う次第であります。

話は長くなりましたが、私としてはとても手相鑑定面白かったので今だけ500円でみてもらえるため、もし興味がおありな方はいかがでしょうか↓

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手相の話をしようと思っていたら結局自分とは…みたいな話になりがち!
という事で今回はこの辺で。

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