人を見ても泥棒とは思えないタイプ

こんにちはゴトー日。6月最初の更新です。

ものすごい勢いで降る雨と、全てをさらっていきたいまでの風が我が家を通り過ぎてあれは台風だったのか、はたまたそういう天候なだけだったのかよくわからないけどその翌日はとっても気持ちよく晴れていたので台風だったのかな、なんて思っている今日この頃です。皆様いかがお過ごしですか。

幼い頃兄に「山瀬まみ(さん)があの声なのは渋柿を食べたからなんだよ」と言われて、そうなんだーと素直に飲み込み翌日学校でそれをさも誇らしげに友人たちに語った事がありまして、当時の友人たちの反応もそうなの?といういまいち信用に足らないと言わんばかりだったという話があるんですが。
最近も家族に、似たような感じの冗談を言われてそれもまた素直に鵜呑みにしていたんです。で、私が家族のその発言を全く疑わずにいるもんだから、言った本人が「さっきの嘘だからね?」とネタバラシをしてくれる始末。

昨今SNSでは多少の加工なんて当たり前なわけですが、私はそれを見抜けずにインスタ等に上がっているモデルさんのような人たちを見て、こんなに綺麗な人たちが今はたくさんいるんだからすごいよねえ最近の人は…と感嘆していたところ、それもまた家族に「いやそれ加工でそうなってると思うよ」と。
そういう技術があるのは分かっているけれどもこうも自然と自分の世界にするりと入り込んでいるため、”それ”が”そう”だという事にも気付かない。

そんなこんなで家族には少し変な目で見られています。
詐欺とかに引っかかりそうだとか心配がられているのもあるんですけど、そもそもなんで疑ってかからないのか?というところに疑問を抱かれている様子。
考えてみれば確かに「これは嘘なのでは…?」という思考はあまり湧いてこないところはあるなーと、こういう感じの話題になると自分のことをそう判断してもじゃあ騙されてお金を請求されただとか、何か高いものを買わされたとか契約しただとかそういうのにも縁があるわけでもなく。
ただそんなに人のことを疑って見ることって何でそんなにないのかな、と自分ながらに自分が分からなくて少し考えてみた。

結論:どうでもいいから。

もうこれに尽きました。
どうでもいいというのは、聞こえが悪いのかもしれないけれどでももし仮に今進んでいる道の先は安全だよ、と言われて進んでいった先に落とし穴があって落ちてしまったとして。それで怪我までして落とし穴から出られなくなってしまったとかいう危機的状況になったとしても、どうしようかなーと考える程度というか。
その言葉を信じて選択したのは自分だから責任は自分にあると思うし、ひょっとしたら安全だと教えてくれた人が通った時は安全だったのかもしれないとも考える。はたまた、何か嫌なことがあって私に嫌がらせをしたかったのかもしれないし、もしそうだったらどの事だろうかと過去の自分の行動を省みると思う。
その人がどういう意図で私に”安全である”と伝えてきたかはその人本人にしか分からないわけで、もし生きて帰れたらその人に会って「あの道の先にあった落とし穴に落ちちゃったよ」という事実を伝えて、そしてその人がどういう行動を取るかを見て判断したい。
何故そういう事をしたのか、と尋ねる可能性があるのだとしたらその人に明確な悪意を感じた時かもしれない。私が嫌いなのかもしれないし、その道を通る人が嫌いなのかもしれないし、他の何かに怒って八つ当たりしたのかもしれないし、わからないから。

詐欺にあったとしても騙されたとしても、私がどう感じるかだけの事であって事柄に対して自分がこれは重要だと判断しない限りは、しょーもない嘘をつかれたって「そっかー」と思う事が多いのではないかなと。
というか思いっきり明確な悪意とかそういう敵意が明らかに感じられても別にあまり気にならなくて、むしろ敵意がある方が陥れたいのかなーという予測がつくからある意味甘んじてその敵意からの行動を受け入れられると思うのだけど、そうではなく直感的になんかこの人は信じちゃいけないような気がする、と思ったらその人がどんなに善人だと言われていようとも信用できないで疑って見てしまう気がする。
だからまあそれに引っかからない限りは自分に被害があってもよくて、そりゃ気に入ってるものが失われてしまったりとかしたら流石に残念だなあと思うことはあれど、直感が違和感を感じなければ私に悪意を持っていても別にいいんだなという感じです。多分こういうところがINFJっぽいような気がします。勝手な自負。

…とここまで書いて、何となく似たような話をしたようなしてないようなそんな気がしているのですが、答えがはっきりとしてない事はずっとぐるぐる考えている性質なのでそこのところはご愛嬌として、受け入れてください。

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