朱に交わっても赤くならない
4月。いいですね、4月って好きです。
春はもともと好きですが、4月って聞くだけでなんかテンションが上がる。
幼い頃自分で使うのがなんだか気恥ずかしかったピンク色の季節だな、と4月という言葉を想像するだけでも頭に情景が浮かぶ。幸せ。
ところで4月は新生活、新年度と色々と環境が変わる人も多いのではないかと思います。
跳ねっ返りというわけでもありませんし、反抗的というわけでもないのですが私は何かと一緒くたにされるのがあまり好きではないんです。
よくある分類分けで例えると、私は血液型A型に該当します。几帳面だとか神経質だとかなんかそういう”日本人らしい”と言われる血液型なんですが、私自身に対してAっぽいと思うところもあればそうじゃないなと感じる事もあり、それは他者から見てもそう取られる事が多くて「こういうとこはA型みたいだけど、こういうところは××型みたいだよね」と言われるんですね。
って事はもうそれは”こういうタイプのA型もいる”になるので、A型の人ってこうだよね〜みたいな括りをされると(ああそういう風に感じるような人もいるな)と思うため、その人の価値観(偏見とも言う)で決めつけられて語られると気分は良くないんですよね。当たり前かもしれませんが…
なので、個人的にそういう主語が大きい感じの話って苦手に感じていて、そういうのを掲げて話している人を見るのもなんかなと思って距離を置きがちになってしまうんですけど、この嫌悪感に近いものはやはり私が長いものに巻かれるのに反抗的だからなんでしょうか。
全ての人に自分を理解してもらいたいわけではない、と思ってはいるのですけれどそれでも関係のないところで変に誤解を与えるのもやめてほしいなと、ちょっと被害者意識になってしまうのかもしれない。
大きい主語で話した人がそうであっても、私が同じだとは限らないのにそうであるかの如く「あなたもそうなのよね」みたいな体でわかった顔をされるのがたまらなくしんどい。
どうかせめて「あなたみたいな○○という人の話を聞いた/読んだ事はあるのだけど、あなたもそうなの?」という確認をしてほしい。そうであればまだ私は意見を述べる事も出来るわけで、私なりの逃げ道も出来ると思うのだけどどうなんだろ…
というか全ての人が同じであるなんて、そんなおこがましい発想を出来る人と自分が同じタイプに属していると思うのも嫌だなと思ってしまうくらいなんですが、そういう発信をするのであれば「自分は◯◯と呼ばれる類の人間だけど、これは自分個人の意見として」という注意書きをしてほしいと思ってしまう。
ここまで書いておいて主語の大きい人の事どれだけ嫌なんだろうと、自分の事ながらに笑ってしまいますね。これはやっぱり嫌いに入るのかな…その人の言動によって自分に被害が及ぶ可能性が上がるから、単純に迷惑と感じてしまうので。
いやでもその人にも背景が…とか考えると自分が何を苦手としているか、何に嫌悪感が湧くのかすらも抑えなくてはいけなくなってしまうから、これは素直に嫌いなんだと思うことにしようそうしよう。
私の文章を読んでくださっている方や、私と直接関わってくれている人たちはほんのりと感じていそうですけど、自覚している口癖がありまして「まあ」なんですが。
その言葉を使う人は、自分はあなたとは違う意見をもっているみたいな心理があるそうなんですね。他にも穏便に過ごしたいとかまあちょろちょろあるにはあったんですけど、うーむ…確かにそうだなと思わざるを得なかった。
実際私は私、あなたはあなたという感覚で普段から話していたり考えているから当たり前っちゃ当たり前の口癖であり、結果ですよね。
だから、まあ、私が大きい主語に括られるのが嫌なのは仕方ないんですね。