re.re. ないことにする習性
コロナだロシアだ食糧危機だ
世界情勢がボコスカだの
金融がへんちくりんだの
決算もボロボロ
倒産廃業の大津波
リストラ失業の大暴走
そうやってテレビはいつも捲し立てるのだ。毎度おなじみのショック・ドクトリン。煽る役者も捲られる役者も結局は同じ穴のムジナという構図は昔から受け継がれた迷惑千万な伝統である。
どうやらボクら大衆には2種類のタイプがあるらしい。恐い話をするから怖くなっちゃう子羊メンタルさんと、あるいは威勢を張って強がって見せても下半身は震えてチビってる現実逃避のダチョウメンタルさん。
他責思考な社会に生きるボクらは、自分のことですらどうしていいのか判らない腑抜けた生きもの。オギャーと産まれて棺桶に入るまで、毎日ずっと誰かに煽られ、何かに焚きつけられて、いつも不安になり骨抜きになり無目的に浮遊しながら人生を消耗している。
それでいよいよ世間が大変なことになって、石油危機だ経済危機だ食糧危機だなんてことになれば、もう見事に思考がフリーズしちゃって砂地にアタマ突っ込んで、右も左もみんなきれいに黙ってしまう。いざ逃げるってときにしても、腰を抜かしてババを引かされてチーンなのだ。
ボンヤリとしたアウトラインでもいい。そうやって危機への扉をあらかじめイメージしておけば恐いことはたぶん半減するものなのに、その覚悟を決めることができないのだから悩ましい。腹をくくって世間を俯瞰することができないのだ。
そうやって目隠しで綱を渡っているのだから、少しでも社会のタガが外れてしまえば個人の生活は散々なことになるし、まして企業とくればもっと大変な事態になる。
企業経営なんてものは時間との戦いなのだから、期限内に結果を出さないと組織がまわらない。危機や変革にモタモタしてたら潰れてしまう。想定外が襲うたびに社長が泡吹いてるようじゃ、もうその会社は終わりというわけだ。
「なるほどこんなことが起きたのか」
「こういうことも起きるはなぁ」
そうやってどっしりと腰を据えていればいいのだ。安易にパニクったところでロクなことにならないもの。イザとなれば如何ようにでも対処できるんだといった具合に、ある意味そんな居直りだって大切だと思うのだ。
今だけを見つめて全力を尽くすのと、何も備えず無思考に惰性を貪るのとでは時間と労力の注ぐべき密度がまるで違う。当たればブルーオーシャンでも、外せば砂を噛むような人生しか残らない。
テレビやラジオなんてものは所詮カラクリ箱でしかない。そもそも大衆を揺動するための紙芝居でしかないのだからウソしか視せない。
政治家や官僚という者たちは、ボクら大衆を騙すのが専らの業務であり、これを好むと好まざるとにかかわらずウソしか吐くことができない気の毒なお役目なのだ。
もっと乱暴に言ってしまうならば、いまボクらが生きる社会の仕組みはいにしえから連綿と紡がれて積みあがった欺きの歴史に他ならない。つまりこの世は壮大なる欺瞞ワールドというわけだ。
その沼にドップリ浸かっておきながら、真実だの正義だのと勇ましく剣を振りかざしたところで、そのことごとくが虚しく空を切るのはもう自明のこと。
ほら、武漢の一件にしてもそうだ。朝鮮のミサイルにしてもそうだ。近隣諸国は素知らぬ顔であり、日本政府も「遺憾である」などと眉に唾をつけては涼しげな様子。忖度だかセンタクだかは知らないが、このありさまなのはここ欺瞞ワールドにしつらえられた戯曲をなぞる役者たちの名演技があってのこと。
政府がウソつきなんてのは、いやむしろデッカいチカラに阿った忠実なふるまいなのであって、毎日が陰謀みたいに感じたとしても、むしろそれこそが欺瞞劇場では正義であるということ。
そういった意味では、政府は謀略を働かないとか、おカミは透明で清廉だとかいう筆法も逆に辻褄が合ってくるわけで、世の中実にウマくできている。この世は性善説を探すほうが難しいのだけれど、どうやらそのことだけはウソではないという残念な皮肉。
だからこそボクらは穿った目線で世の中を捉える必要があり、いつだって事変は起こり得るものとしてハラを据えて、或いは居直って生きていかなければならない。
ハシゴは蹴飛ばされるもの。善悪可否は嗅ぎ分けるもの。直感で乗り切る場面にも出くわすだろう。だからこそ直感って大事なんだよね。非常時こそむしろ冷静に捌くだけの心の準備は要るんじゃないかと思うのだ。
アメリカ人のエピソードでこんな話がある _
彼は中国の武漢にいた。ウィルスが漏れ出る騒ぎに遭ったのだけれど、周囲の人々はのんびり楽観的な様子だった。それでも自分は直感でヤバいと感じたらしく、彼は早々に国外へ逃げたんだ。
案の定、まもなくして街は他出封鎖になり人々は街中に閉じ込められた。もしあの時 躊躇して居残っていたら…
ウィルス話の信憑性は横においたとしても、危機への嗅覚がなければ逃げ遅れるってことの好例なんじゃないだろうか。緊急時は理屈っぽい者ほど呑まれてしまう。
ノロマは謀略に掛かってしまうってことなんだ。つまり事変が起きたら直感だけが命綱になるわけであり、いわゆる「ムシの知らせ」的なものはものってすごく大事だと思うのだ。
時には理詰めで石橋を叩くべき場面もあるだろう。分析してロジック固めて万全に整えて、それでようやく行動を始めるほうが功を奏することだってあるかもしれない。
しかし身のまわりの出来事の大半は、だいたいが大雑把な流れでしかないのだ。データを並べれば全てが正しいとか、教科書や実験室の理屈が常に正しいかといえば、必ずしもそうならないほうが多いんじゃないのだろうか。
はたしてそれは正しい情報なのか…そこにエビデンスはあるのか…そんな具合に人びとは噛みついてくるのだけれど、この欺瞞ワールドにおいては正しいと思えばすべてが正しいのであり、間違っていると思えばすべてが間違いなのだ。
ある何か一つを信じて「君は救われます」としたところで、それで万事が「正義デス」なんて話はまずありえないわけで。
たとえば明治維新や戦時中の様子。未だにそれらの資料が発見されるけれど、書物が出てきたとか証言が見つかったとかしながら、それでそのたびに歴史教科書が塗り替えられる。新しい情報によって別の結論に塗りかわる。
つまり歴史はデタラメであり、つまり教科書はデタラメなのだ。それでセンター試験だとか、お受験だとかで命を燃やしている。けれどもその違和感には誰も触れないし疑問を抱かないのだ。
何が正しいかなんてものはきっと誰にも分らないわけであり、だから目に映るもの耳に聞こえることの事象は、今現時点において「現象」でしかないと思うのだ。
そもそも欺瞞ワールドで湧く情報などはぜんぶ'幻'。それがプラスだろうがマイナスだろうが何だってアリで何だってナシなわけで。それならばボクらができることといえば、片っ端からペンディングする行為しかないだろう。
右に行って行き止まりなら左に行けばいい。左に行って行き止まりなら右に行けばいい。行き止まりになっちゃったら考えて、それでまた歩き出すだけのことなんだ。
右へ行こうが左へ行こうが、ほんのちょっと時間が違うだけのことであり、無理にこねくり回したところで大差などありはしない。デッカい宇宙の括りで俯瞰すれば、すべては誤差にも満たない問題なのだ。
人生とは苦労の連続であり、苦労を営む行為そのものが人生というわけ。むしろそうやって居直ってしまえば、これからも襲ってくるだろう辛いことも間違ったこともまた必然不可避のシナリオ。そう考えないと人生前に進めなくなる。
欺瞞ワールドにしつらえられた物語はいよいよ事変や阿鼻叫喚の序章に入るだろう。この期に及んでもなお'常識'とか'べき論'とかぶら下げているならば、すぐにでも捨ててしまったほうが懸命なのかもしれない。あれは視力を狂わせるし、柔軟性と瞬発力を鈍らせてしまうのだから。
理不尽を避け理不尽から逃げても
自分を騙し続け他人を責めるような
貧寒な人生が待っているだけである。
人生の理不尽を変えられないのなら、
いっそその渦の中心めがけて身を投げ
その微妙な襞に至るまで味わい尽くす
そのくらいの気概があってもいい。
〜『人生、しょせん気晴らし』
この欺瞞ワールドは何でもアリ。いま目の前に起きてるそのものに正義も不義もなく「べき」も「ヘッタクレ」もないのだ。それでボクらはいつまで砂に頭突っ込んで現実逃避しているのだろうか。
先入観を捨て去り嗅覚を養うこと
養った嗅覚で推理し行動すること
行動する直感とはつまり肌感覚
肌感覚とはつまり敏感なアンテナ
この世界は詭弁と欺瞞に侵されてる
アンテナが錆びてるから気づかない
これはとても恐いことなんだ
さあ、世の中ではガラガラポンか始まっている。自分のアンテナ感度が命綱になる未来はそう遠くない先にやってくるに違いないだろう。
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