インプリンティング
ホントは天才やバカなんてないんだ
その差を決めつけているのは自我
もし 真実を語るなら
何ひとつ覚えておく必要はない
所詮 記憶とはゴミの塊なのだから
生まれながらにして授かっている'五感'を蔑ろにしておいて、六感だの七感だのと、それはあまりにも乱暴なはなしである。
陳腐なスピリチュアルに誑かされているほど、チャクラやらオーラやらに熱心なのだけれど、そもそもセンサーが錆びているのにアレだコレだもないのである。それではいくら坐禅をしようが、瞑想に入ろうが、やってる感という虚しいループを巻き重ねるだけにすぎないだろう。
人生なんてものは、濃霧であるがゆえに視界はすこぶる悪い。それに加えて荒波は上がれば下がり、下がれば上がるを繰りかえす。そんな時化た大海へ羅針盤も持たずに飛び出すのだから、そりゃ航路を見失うのも無理はない。心と體が区々で、船酔いのままに櫂を漕がんとするのは、まさに無謀そのものである。
ともかく大海原で安全に巡航させたくば、それ相応の装備を整えておくのは当然のことである。人生行路で最も重要な装備である五感を、最良のコンディションに整えておくことは、何につけても最優先にすべき条件であることを、まずは知るべきなのた。
五感が受信した視・聴・嗅・味・触の信号は脳へと送られる。この信号は脳内で演算処理され、おそらく物質次元である地球上の出来事になぞらえてアウトプットされていることだろう。ただしそれは、真理に寄り添っているか否かの確認を反芻はしていない。
ちょうどそれは、生まれて初めて見るものを親だと認識してしまう'インプリンティング'のようなもの。つまり五感が錆びてるが故に誤受信した情報であったとて、その歪みを矯められることなく脳は素直に演算処理を続けてしまう。
この世に生まれてから現在に至るまでの経験値は脳内で蓄積される。その蓄積は育った環境に大きく左右されるのだが、とりわけ五感センサーのコンディションは最も大きな要因の一つであろう。
仮にこれが錆びていれば、その受信にノイズが混じり、バイアスのかかった情報はその真偽に関わらず脳内に取り込まれてしまう。脳は素直に仕事を果たすのだから、それで導き出された答えは真理から乖離していることは容易に察しがつくというもの。
その最も顕著なエラーは'自我'が紡ぎ出す様々な歪みであろう。その先入観満載な想念のシコリは、五感から得られる情報のことごとくを'真実である'と認識してしまう。それがまさに人生苦悩の始まり。飽くなき苦の監獄レース。日常の喜怒哀楽は、その苦悩がアウトプットされた澱なのだ。
いずれにせよ、これらの蓄積情報はノイズだらけのガラクタに他ならない。そして不幸なことに、その脳内バグの自浄は困難である。なぜなら、第一番目に取り込んだ情報を'正解'と自我はロックオンしてしまうからだ。つまり次に入ってくる情報のすべては、この'自我フィルター'に検閲され、確証バイアスとなって膨れあがるのである。
錆びた五感から送られたノイズは、脳内でバグの山と化す。脳はそれを基に演算処理をして、物理次元を前提とした先入観で捏ねあげた'自我ダンゴ'を創る。それでも脳は劣化コピーをやめやしない。やがてそれは雪だるまのごとく膨れあがり、遂にはヤニっこく凝り固まった'自我帝国'へと形成されるのだ。日々の立居ふるまいは、この醜態の集大成であろう。
天が動いているのか、又は地が動いているのか、或いはそのどちらでもないのか…口角に唾を溜めながら、醜い自我帝国はこんな不毛な議論を重ねている。これがいかに人生の無駄使いであるのかを考えようともしない。そんなエラー自慢をしている愚かなるジャンクは、一刻も早く脳内から一掃すべきなのだが、それがなかなかできないのが悩ましいところ。
ひとたび張りついた自我は、そう易々とは剥がれないもの。まるでウィルスのごとく刺激を求めて盛んに活動する。體や心で欲望が燃えさかり、一つの欲求が満たされても、やがてはすぐに禁断症状として現れる。その際限なく沸きたつ欲は、また新たなキャンディーへと手を伸ばしてしまうジャンク野郎なのだ。
どこまでいっても満たされぬエンドレスな苦悩。過食や薬物依存、執拗なまでの物欲、執着心、抜け出せぬ煩悩の渦である。周囲の影響に看過され、翻弄され、いつの間にか自身の足元を掬われ真実を見失って取り乱す。そんな脆弱な小舟をこの大海は容赦なく掻きまわすのだ。
生きている限り、命ある限り、誰もが一切の例外なく与えられる最期。その真理から目を逸らそうとする苦しみ。物理次元の重たさや厳しさ。つらい体験や科学文明のノイズだちが五感に劣化を誘う。その錆びたアンテナから映し出される ことごとくは道理を歪ませる。ところがそれを'違わぬ真実'であると決め込んで疑わない自我意識。
真実の誤謬は頻繁に航路を見失う。それで仕方なく小舟の弱さや隙を取り繕う。誤魔化し、安易な方へとこの身を手向けながら、あたかも問題なく巡航しているかごとく体裁を装う。一見してそれは柔軟な生き方に映るのかもしれない。けれども、これほどまでに不自由で苦悩極まる生き方はないのである。
いま起きている万物事象には、例外なく何かしらの意味があるのだという。宇宙は因果であり波であり粒であり揺らぎである。すべては揺らぎの干渉によって織り重なった波紋のようなもの。もしこれが真理であるならば、善きも悪しきも必然不可避の道理なのである。
そうとなれば、正面から対峙する方法が唯一無二の転覆回避となるわけで、つまり直感の赴くままを信じて居直るしか術はない。むしろ、根拠のないムシの知らせにだって全肯定で目の前の波に乗っかればよいのである。
なんなら、ほんの先の未来ぐらいなら見立てられるのかもしれない。なぜなら、波は高いほど その向こうに広がる大海の遠くを見渡すことができるのだから。
これを根拠のないカルトだと侮るなかれ。そもそも直感とは誰もが本来持ちあわせているデフォルト機能である。ただしかし、タチの悪いノイズを存分に浴びたジャンク頭では、その直感が発動することは、めったにありはしないだろう。
それを疑うなら、試しにキミの頭蓋骨を開けてみればいい。そこには自我帝国のウジが悍ましいばかりに湧いているに違いない。我々はそのインプリントを剥がさないかぎり、不甲斐ない結果を振りまわし続けるのは避けられないのである。
錆びた五感は情報を濁らせる
濁った情報は脳を腐らせる
腐った脳は錯誤を捏ねる
捏ねた錯誤は自我を創る
創られた自我は自己を醜態化させる
侵された自己は相対を生み
生まれた相対は境界線を引き
引いた境界線は争いの修羅場と化す
五感を清めよ 自我を排せよ
澄んだ心は直感を醒ませ
醒めた直感は真理を招き
招かれた真理は五感を澄まし
澄んだ五感は生を諭す使徒となる
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