スポンジ人間
現代に生きるボクたちは
想像力の抜け落ちた
スポンジ人間になりはててしまった
会社でも学校でも町内でも
そして家庭内においてでも
「前例至上主義」だとか
「答えありきのマルバツ教育」だとか
そんなのが捏ねあげたスカスカな空気玉
幼少からずっと繰り返される予定調和
飽くなく出題される( )
それを汗だくになって埋める毎日の暮らし
誰よりも早く答えにたどりつきたい一心で
必要とあらば家族でも友人でも利用する
そして最後には涼しげにハシゴを外して
隣の誰よりも先に正解の御旗を掲げるのだ
まるでそれこそが正義であるとばかりに
たったそれだけが生きる全てとばかりに
必死に、躍起に、ムキになっている。
半ベソでも、ヘトヘトでも、ボロボロでも
どこにも逃げられやしない。
穴を埋めて埋めて埋め続けなければ
安住できるところなんてないんだ。
会社に忠誠を誓って
序列の最後尾に従僕する。
配られた持ち場に繋がれて
与えられた役割を強いられる。
先ずは決められた座席におとなしく留まり
次に決められた順路で従順に舗を進め
そして決められた速度でひた走るのだ。
事実や実態に対峙することは絶対しない。
問題を掘り下げていくことは絶対しない。
そうやってテンプレートをあてがわれ
順当に羊の群れへと埋もれてゆきながら
レイバーな資質は存分に発揮されるんだ。
意思決定が予定調和的な全会一致社会。
誰かが反対すれば意思は決定されない。
会議のスケジュールを綿密に練って
資料をガッチリ捏ねあげて
それでご丁寧に全文を読みあげたりする。
前例を踏襲することが評価の基準であり
過去問をたくさん解くことが出世の条件。
根回しを尽くして、波風を抑えて
'正解'ありきの( )が埋まれば
そのひとは「できる人」となるのだ。
だから体裁を整えることだけがTPOであり
とりあえず見なかったことにして
とりあえず知らないふりをして
粛々と淡々と臭いものにフタをする。
自分で戦略的なことを考えてはならない。
自分でハンドルを握ってはならない。
自分は一ミリの意志も懐いてはならない。
自分は自分であることを許されない。
この世に生まれた意味だとか
この世に生かされてる意義だとか
そのつど立ち止まる意志や時間もなくて
命を哲学するのは世間的に焦ったいのだ。
最短最速で端折ることだけに専念し
前例と一致した回答しか承服できず
遠回りなんて死ぬほど不快なのである。
ましてや答えのない問いなど鼻で笑い
行間の想いを馳せることなどあり得ない。
深い思考態度にはまるで興味がなく
いやむしろ積極的に排除さえしてしまう。
こんな自問と自答に手間取っていては
居場所がなくなってしまう気がする。
模範どおりに空気を読まなければ
世間から取り残されてしまう気がする。
いっそスカスカでいいのだ。
むしろスポンジでいいのだ。
会社でも学校でも町内でも
そして家庭内においてでも。
だからとりあえず自分を生き埋めにして
自分で自分のことを置き去りにしてゆく。
もちろん愚かなことだとわかっている。
もちろん命の浪費だとわかっている。
体裁こそが最優先であるというバカな世界
予定調和が全てだという箱詰め窮屈な世界
「ほぼ」では絶対にNGなのだ。
「ほぼ」が確実度90%だとすれば
「ほぼほぼ」は95%とされるわけで
この僅少差が重大な分水嶺となる。
それを端折ることは即ち死を意味する。
だから人々はこれを鑑みて脂汗を垂らす。
完璧ではないが確実であるとアピールし
顔を歪めながら「ほぼほぼ」とセリフして
とりあえず「正解を埋めた」ことにする。
こうして「ほぼほぼ」は市民権を得た。
まったくくだらない便利な単語である。
まったくくだらない穴埋め道具である。
いや… まったくくだらない人間社会だ。
こんな具合にボクたちは毎日を汲々と生き
( )に人生の大半を費やしている。
そんな現代に生きるボクたちは
見事に想像力が抜け落ちた
無機質なスポンジ人間なのだ。
穴埋めが苦手なだけでバカにされ
穴埋めが苦手なだけで落ちこぼれ
穴埋めが苦手なだけで社会弱者と果てる。
感性と想像力が豊かであれば毛嫌いされ
スカスカ社会の構成員として存在しながら
著しく不利な状態に追いやられ排斥される
もはや絶滅の危惧に晒されているのだ。
空っぽなスポンジ人間になりすまし
死んだ魚の目のように振る舞うことでしか
この娑婆で生きる術はないのだろうか。
ならばボクは手も足も存在などしない。
ならばボクは目鼻口耳も存在などしない。
こんなボクはいったい何者なのか。
今ここに在る意味は何なのか。
表情もなく死んだ目をした人々の雑踏は
そうやって立ちすくむボクを置き去りに
今日もただ黙々と踏みつけてゆくのだ。
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