『純愛ってどんな恋愛だと思いますか?』への回答。
『純愛ってどんな恋愛だと思いますか?』と聞かれました。
純愛というと、純愛ドラマや映画を想像します。
多くの女性(男性も?)たちが、感動し感激し涙する。
純愛ドラマだから、世の女性達が胸をときめかして観ると言われます。
はたしてそうでしょうか・・・。
私が、これまで見た、それらのドラマは全て、ものすごい葛藤と奪い合いの末、結ばれるというドラマチックなものばかりです。
よくあるパターンは、地位のある者と地位のない者、金持ちと貧乏人、モテモテな人とモテない人、が恋に落ちる物語です。
つまり、そのような対比の方が、ドラマ性があり「純愛の感情」が際立ち高まるからです。
ドラマ・映画では、愛を貫くために、ひどく他人を傷つけ裏切っているのです。
その愛憎劇が、一途な純愛部分をいっそう輝かせます。
若い時のように、ただ「すごく好き」なんだというのは、この定義から言うと純愛でない。
純愛というものは、とても深いものなのです。
つまり、純愛にたどりつくとは、困難なことや苦しいことが多いほど素敵で輝くということです。
たとえば、沢山の出会いと別れを繰り返す。
別れるたびに泣きあかしても、また誰かを好きになる。
そして、一人の愛する人にたどり着く。
それが、純愛なのです。
大人の恋は、打算的で汚いなんてよく言いますが、物質的豊かさ優先の世で、強欲な時代だから汚く見えるだけです。
沢山の限りない欲にまみれるからこそ、たどり着いたら純愛になるのです。
「純粋」というのは、時には残酷で沢山の犠牲の上に、成り立つことが本質です。
だから、何歳になっても、人を好きになることは出来るし、純愛に巡り合うことも出来ます。
大変なことや困難なことを乗り越えることによって、人の人格は磨かれることに似ています。
仏教的な教えで解説すると。
蓮(ハス)は、泥の中に根を張りながら、
泥にまみれることなく美しい花を咲かせる姿が、
仏教の教えと一致するとされています。
それで、仏像・仏画などには、頻繁に蓮が使われます。
美しい花を咲かせるためには泥が必要である、ということでもあります。
つまり、私たちはいろいろな悲しみ・つらさ・苦しみを経験しない限り、悟ることはできないという教えなのです。
仏教でいう、「悟る」という境地に達するのは、欲にまみれて生きてきた人の方が、より深く悟れると言われます。
例えば、何不自由なく専業で家庭生活を送ってきた主婦が、悟るとしたら、それは、浅いもので、本当の悟りとは言わないそうです。
ちなみに、仏教では、愛は渇愛であり、渇愛とはのどがかわいて水を求めるように、激しく執着すること。
そのために、煩悩として捉えているために渇愛から離れることを理想としてます。
この美しい蓮の花が、恋愛でいうところの「純愛」だと、私は思います。
純愛は、悟りの一つです。
私たちはいろいろな悲しくつらく、大変な恋愛を経験しない限り、純愛にたどり着けないということと同意です。
むしろ、初恋のように、学生の頃の世間に揉まれてない、世間知らずでの「ウブな恋」は純愛とはいえない。
欲にまみれて人生を経験してきたけれど、辿り着いたのが「純愛」であるという考えがしっくりきます。
分かり易い表現をすると、
愛は、「相手の望むことが想像できる」「相手の幸福の為に生きる」ことです。
欲は、「自身の利益になることを最優先する」「自分の利益のみを追求する」ことで、利己中心的な考え方です。
だから、誰でも何歳になっても、「純愛」にたどり着くことは出来ます。
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