東日本大震災から13年経過した実感と薄れてきたもの
いや、まいったね。
この土日で、欅って、書けない?を13話視聴
乃木坂46と日向坂46(けやき坂46を含む)は既に応援していたけど、欅坂は初絡み
きっかけは、暇な時間との向き合い方を改めたこと
ただなんとなくYouTubeやTikTokを見るのは避けたく
アマプラで映画でも見ようかのノリで、欅坂46に挑戦!
乃木坂46のライバル的な感じで勝手に敵対視していたけど、ごめんなさい🙇
めちゃ可愛い✨
箱推しかなあ
まだ142話までしか見てないんですけど、あかねんの熱い感じ好きだし、べりかの女の子っぽいところ好きだし、オダナナの飾らない感じも
ちなみに、最近はそこさくも並行してリアタイしてるけど、最近の推しはれなあ
さすがに可愛いの権化すぎてツラいです(新井貴浩風)
ほんと、あんなに可愛い子たちって存在するんですねえ
今度は実際にお目にかかってみたいわあ
と、興奮しすぎたんですけど、16号いっちゃいますう
果たして日本は、東日本大震災から復興したのか
2011年3月11日(金)14時46分
その一瞬を境に生活は激変した。
東北地方を中心に、日本中に激震が走ったと言う。
激震という言葉では表しきれないほどの大きな揺れ、停電、断水、地割れ
そして、いちばんの特徴は大津波
翌朝、街の姿はそこにない
原発事故も相次ぎ、風評被害は未だに続いていると聞く。
最大震度7、地震の規模を表すマグニチュードは9.0
死亡者は1万5千人を数え、行方不明者は今もまだ2,500人はいるとのこと
この状況で、復興したと言えるのか。
新しく街を作り、それらしく住宅を建て、それぞれがなんとなく生活できるようになれば、それが復興なのか。
あの人を、あの子を失った傷はまだ癒えていないだろう。
一生癒えないだろう。
今こそ、第二次復興だ。
確かに、何から何まで震災以前に戻すのは難しいだろう。
さて、2024年3月11日(月)14時46分
いや、時間まではこだわらないが、この日に東北へ想いを馳せた者はどれほどだろうか。
悲しいかな、私の職場では周りでそのような話題は一切聞こえなかった。
これが現実である。
ただし、これは被災者も良くない部分はある。
お前らも、最近は意外と不自由なく生活しているのではないだろうか。
そりゃそうだ、東北地方で未だに停電している地域、断水している街は聞かない。
発信しよう。
あの時期は日本中が、世界中が毎日のように記事にしてくれた。
震災から何日経過、何か月経過、「被災地は未だ復興進まず」
何回この記事を見ただろう。
でも、いつからこの記事を見なくなっただろう。
せいぜい毎年3月11日にニュースにしてくれる程度だ。
いつまでも被害者面していていいのか。
我々から動こう。
我々がすべきことを怠ったせいで、能登半島地震で多大な被害が出た。
言い過ぎか。
いや、我々も被災者としてこの経験を後世へ語り継ぐ責務がある。
災害バッグを用意している者はいるか?
私の体験談が1人でもいい、2人でもいい、どこかで誰かの命が助かっていたらという気持ちで執筆する。
日本中で「ぽぽぽぽーん」というCMが流れて止まなかった、あの日々を少しばかり思い出そうじゃないか。
東日本大震災の現場で何が起こっていたか
2011年3月11日(金)
あの日、私は小学5年生
掃除を終え、教室で帰りの会を行なっていた。
金曜日は5時間授業
当日は、仲の良い友だちを家に呼んで遊ぶ流れとなっており、みんなでこっそり学校へ遊び道具(ゲーム)を持ってきていた(先生、ごめんなさい🙏)
今日はどんなお菓子を食べながらゲームをしようか、話半分で考えていた。
だがしかし、先生が
「もぐれえええ」と怒号に近い声でまくしたてる。
途端に、爆発音とも違う
「ごごごごご」という音と同時に激震に襲われる。
皆が机の下に潜りながら、長い長い激震に耐える。
これはおかしい。
揺れがおさまらない。
避難訓練で、「ぐらら」の揺れを体験したけど、同じかそれ以上の揺れが止まらないよ
設定ミスかよという心の声も虚しく、地面は揺れ続ける
周りでは泣く子も出始める
それを慰められる子もいなく
クラスで飼育していた金魚の水槽がひっくり返り、教室半分が水浸し
嗚呼、地獄絵図ってこれかと今更ながら思う。
たかが10年ばかりの人生で何をしたというのか。
みんなで毎日遊んで、勉強して、遊んで怒られて、ただそれだけじゃないか。
あんまりじゃないか
と思ったら、第2波、第3波が止むことなく訪れる。
あまりに長い地震だった。
実際に5分程度は揺れ続けていたのではないだろうか。
この時点で停電、断水
冬である。
そして、なぜか追い討ちをかけるように雪が降ってくる。
校舎がそのまま建っていてくれただけでも幸運か。
もう、放課後友だちと遊ぶ約束なんて当然リセットだ。
保護者が迎えに来て同伴下校の流れとなる。
今思うと、通信も途絶えていただろうに、着々と保護者は教室へ迎えに来る。
もう2、3時間は待っただろうか。
我が家は学校から徒歩20分程度のはずなのに、やけに母親の迎えが遅い。
変なことを考えては不安になり、それを打ち消して
もう一回考え始めて不安になり、打ち消して
もう何周しただろう。
やっと来た。
自然と涙が溢れそうになる。
まずは家族が1人無事で安心した。
さて、家に帰ろう。
2011年3月11日(金)夕方
母は仲の良いママ友と出かけていたとのこと。
ママ友の車で急いで駆けつけたが、遅くなってしまったと。
母、ママ友、ママ友の子(1学年上の先輩)、私の4人で車で帰る(送ってもらえる)ことになった。
乗ってすぐ、事を理解し始めた。
これは時間がかかるわけだ。
停電しているから、信号機が動かない。
皆が譲り合って、進もうにも全然進まない。
ワンセグで情報を集める。
緊急地震速報が鳴り続ける。
何回も揺れて、何回も鳴り続ける。
果たして、どの緊急地震速報と地震が対応しているのかわからない。
常に緊張状態である。
画面が切り替わり、沿岸部が映る。
予想される津波の高さと沿岸部の様子が実況される。
水位が低くなっていると、そういう実況だったと思う。
先輩がワンセグ越しでわかるほど、水位は低下しているようだ。
当時は、津波の知識が乏しく、それがどれだけ危険な状況かわからなかったが、今思うとやはり相当危険な状態だったのだろう。
1時間ほど経っただろうか、歩いて20分の距離を4人で不安を共有、緩和しながら家までなんとか辿り着いた。
(先輩家族、改めてその節はありがとうございました!)
2011年3月11日(金)夜
マンションのエントランスに到着すると、住人が携帯片手に何人も立っている。
言い方を考えなければ、立ちんぼと言わんばかり。
マンションに、こんなにたくさんの人がいたのかと思うほどの人の量がそこに集まっていた。
その中に、父もいた。
一度帰宅、家族の安否を確認するよう指示が出ていたとのこと。
安堵とともに、どっと疲労感に襲われる。
あ、エレベーターなんて当然使えないのかと状況を飲み込み
スムーズに階段で自宅まで。
高層階を選んだ母をここまで恨んだことはない笑
家に入ると、また地獄
足の踏み場もないとはこのことで、初めて自宅でスリッパを履いた。
初めて自宅で懐中電灯を正しい用途で使い、初めてラジオを聴いた。
ラジオなんて祖父母の時代の話と思っていたから、まさかお世話になるなんて思っていなかった。
各部屋の状況は、言葉で表すのが困難を極める。
空き巣でもこんなに荒らせないだろうと思うほど
部屋の一つは、中でタンス等が倒れあって扉が開かない。
また別の部屋では、ピアノが倒れている、というか倒れきれずに壁に刺さっていた。
実は、この部屋で私は毎晩寝ていたため、発生時刻を間違えたら私は非常に危険な環境にいただろう。
当然の如く、食器はほとんど割れていた
家って、全然安全じゃなかったんだなと実感しました。
2011年3月11日(金)深夜
なんとなく3人が寝転べるほどのスペースを確保したら、両親は自然と眠っていました。
私は次々に来る余震で覚醒状態。
おまけに暗闇の恐怖も追加される。
父は仕事に戻らなければならず、母と2人きりでいるのも不安なため
近くの避難所(中学校)へ。
なぜか家にあった防災バッグも持参
新聞紙と防災バッグの中にあったシートをひいて、毛布をかけて眠る。
小学生の私はまだわからなかったが、たぶん地面が硬くて痛かったんだろうな
夜中も緊急地震速報が鳴る。
鳴る度に、建物の外へ避難する。
何回繰り返しただろう。
朝が来る。
2011年3月12日(土)
号外が配られる。
河北新報が東日本大震災の悲惨さを伝えていたのだろう。
母は絶句。
私も空気を読んで、もう一眠り。
人々が動き出した頃、我々も片付けをしに再び自宅へ
昨日は暗くて全貌が掴みきれなかったが、翌日になってようやく被害を詳細に把握することができた。
テキパキと片付けに取り掛かる。
だんだんとお腹が減ってくる。
廊下から声が聞こえてきて、母となんとなく行ってみると、住人同士情報交換をしている。
コミュニティマジで大事
各家庭の被害やちょうど買い出しの情報なども交換。
ある家庭では、当時揺れながら食器を洗いきり、他の家事も全て片付けていたとのこと。
さすがに引いた笑
留守番好きの私も、さすがの恐怖で母との買い物に同行。
近場を巡るも、どこも売り切れや営業していなく…
食事できる環境ってこんなにも恵まれているのかと実感。
夜は再び避難所へ。
昨日よりは寝れた気がする。
が、緊急地震速報の音は心臓に良くない。
一気に眠気が覚める。
2011年3月13日(日)
朝は、号外とともに非常食が配られる。
わかめご飯だ。
1人1パック、きちんと回り切ったか。
味も覚えている。
見た目こそわかめご飯だが、味がしない。
恐怖で感覚が麻痺しているのか、薄味なのか。
それでも、涙を目に溜めながらご飯をかきこんだ。
どこの誰かわからないけど、人の親切がこんなにも身に染みた瞬間はあるか。
冷たい米がこんなに美味しかった日はない。
この日から確か電気が復旧していた。
1パックを半分ずつ食し、残りは電子レンジで温めた。
塩もかけた。
美味い。
これが料理の基本だ。
確かテレビも見た。
常に画面上部には速報の字幕が流れ、そこでも緊急事態であることが伺えた。
子どもながらにダメージは受け、得意のDSをする元気もない。
水道は出ず、また避難所にくり出したと思う。
東日本大震災発生から約1週間後
自宅でお風呂に入った。
ただし、温水器が壊れていたため、キッチンでお湯を沸かして
水とお湯を混ぜるやや原始的なお風呂だった。
1週間程度お風呂に入らないって、これが最初で最後であってほしい。
気持ち良いが過ぎた。
余震こそ続くものの、徐々に生を感じる日々。
親戚とも連絡が取れたのがこの頃か。
父方の方も人災はなく
母方の方も人災なく。
そして、母方の方からこっちに来いと。
避難しておいでと。
新潟の方で中越地震の経験があるからか、非常に優しくしていただいた。
数日もしないうちに、避難させていただくことになった。
新潟では温かく迎えていただき、およそ1か月ほどお邪魔していたか。
人がいる温かみも重なり、1か月間何不自由なく過ごすことができた。
従姉妹は学校に通う中、私は家でテレビ、ゲーム、パソコンをしながらあぐらをかいていた。
(おかげで年度初めの写真撮影では、顔が雪見大福に負けないほど丸かった)
東日本大震災から復興したのかという問いに対する答え
結論として、当然復興はしていないだろう。
まだ家族が見つからず苦しんでいる人がいる。
まだ震災以前の水準に戻れず苦しんでいる人がいる。
また、この経験を伝達できず、能登半島地震等で同様の被害が出てしまったことが、誠に遺憾である。
もしかしたら、中途半端な被災者たちがこのような悲惨な現実を招いてしまっているのかもしれない。
心の傷も、時には曝け出して、日本のために尽くそうではないか。
当事者が、語り部の仕事を放棄しちゃダメよ
「ぐらら」、なに、事業終了してんだよ
お前の存在意義を考えろよ
私は、もうこれ以上悲しい経験をしたくないし、してほしくない。
来たる東海地震、首都直下に対して、指を加えて待っているのは馬鹿馬鹿しい。
絶対負けるな。
今からでもできることを。
まずは防災バッグを準備するだけでもいい。
その一つの行動が、実は大きな一歩だから。
あとがき
この記事を書こうと思っておよそ1週間が経過した。
何を書くのが世の中に最も刺さるのか。
熟考した結果、私の体験談を執筆することにした。
ああしろ、こうしろと言うのは簡単。
どれだけの説得力があるか。
私の体験は、ぶっちゃけ軽い方だ。
それでも、少しでも皆様の肥やしとなれば幸いである。
1人でも2人でもいい。
日本の、世界の誰かに届いて、響いて、どこかしらで役立ってくれたら本望である。
人生100年時代、せっかくなら楽しく生きようぜ。
PS.嶋基宏の「頑張ろう東北」感動しました。HRも忘れません。
おやすミッフィーちゃん
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