Ryunosuke Ninomiya

Ryunosuke Ninomiya

最近の記事

忙しい日々に好奇心を持つ

昨日、筋肉の電気信号を音に変換して演奏するという不思議な世界を目にしました。 基調講演というのか、事前の説明講習会がオールイングリッシュで行われたのはなかなかに堪えましたが、普通に生きていたら出会うことの無い世界に触れることができ、とても貴重な経験でした。 今日、大学のオープンキャンパスがありました。今時の高校ではどんどん「地域ブランド企画」っぽい授業が増えていることを知りました。生徒に学科のことを説明することは、自分としても再度、社会の中での「ソーシャルデザイン学科」や「

    • 眩しいな

      薄暗い教室の中 スクリーンだけが光っている。 腕時計が光を反射して、僕の目にちらつく。 今日はなぜだかそういうのが気になる日だった。 ゼミ室で課題をしていたら、また時計が光った。 その光は蛍光灯からのものだった。 天井から降る光の線を、僕は時計を介して下方向から認識した。 別にただそれだけの事。文章に起こすほどでは無い。 いつものように、夕飯はきんちゃんに来た。 ここでも時計が反射した。 いつもなら気にしないけど今日はやけに気になる。 反射して、少し眩しい状態で

      • 私は私が何者であるのかを知らなければならない。

        なぜ、人はいい加減であることをほったらかしにできるのだろうかと、そのように思うことがある。いや、これは言い方が良くないかもしれない。 私は人と話す時、相手のことを分析しながら、この人はこういう話題が好きで、こんなふうに話せば良いのかと、推測を立てながら「会話」を構築していく。 そのせいだろうか。 私は初対面の人と話すときに、その人に対してどのように話題を振れば良いか、少し戸惑う。 だから人によっては、初対面で、相手のことをよく知らなくても変わらず話を盛り上げられる人がい

        • 背景と目的

          大学に入ったら、研究とか課題とか何かと「背景と目的」を決めないといけない。 この時最初の壁にぶつかった。 「背景」と「目的」の違いってなんなの? ただ今思えば簡単なことだった。 最初に研究に対してその2者を考えるから難しいのでは無いか。 僕らが「何かしたい」「何かしなきゃ」と思う時には、それぞれ背景と目的があるはずなのだ。 もっと身近なところで考えた方が分かりやすかったりする。 例えば、「洗濯しなきゃ」と思ったとする。 その場合の背景は、 ・洗濯物が溜まってきた。 ・

          第36回フィンスイミング日本選手権大会

          大会行く直前まで「正直練習出来てないし」「研究計画書も課題も追いついてないし」とかって色々言い訳考えて行くのやめようかとか思ってたけど「みんなに会いに行く!」と思って頑張って荷造りして家を出ました。 飛行機に乗った時にはもう、後戻りできないからとにかく楽しもうって前向きになってきました。 当日会場でアップを始めると、久しぶりの長水路で、泳いでも泳いでも泳ぎ続けられる嬉しさで、段々楽しくなってきました。 疲れないように、足首が痛まないように、自分を抑えながらアップを済まして挑

          第36回フィンスイミング日本選手権大会

          わかば食堂

          母方のおばあちゃんは食堂を営んでいた。 昔はおじいちゃんと一緒に。 家もそこまで離れていなくて、車で20分ちょっと。10歳くらいになるまでは、毎週土曜日に兄弟揃っておばあちゃんの家に泊まりに行ってた。まあ、兄弟3人とも年齢が離れているから、最後の方は自分1人だけだったけど。 おばあちゃんの作るご飯は美味しかった。特に好きだったのはオムライス。妙なこだわりが強かった自分はいつもケチャップを卵の表面全体に塗りたくってから食べていた。 でも大人の一食分の量が出てくるから、小さい頃

          見えないものを見ようとして

          写真を撮っていると、「見え方」だったり「捉え方」だったりに意識が向き始める。 僕らの視覚が捉えられる情報には限界があると思う。眩し過ぎるものを見たくはないし、黒く潰れたものを見るのは酷だ。 普段はSONYのミラーレス一眼で写真を撮るのだが、少し前まではスマホで写真を撮るのにハマっていた。 一眼カメラとスマホの大きな違いは、センサーサイズ・ダイナミックレンジ・画角の3点だと思っている。 わかりやすく言うと、一眼は画質が良くて表現に自由がきくということである。 だからやは

          見えないものを見ようとして

          安寧へと駆ける

          新しいことを知る 新しい人を知る 新しいものを見る それらは全て、とても勇気のいることだと思う。 「新しい」に触れるということは、きっと、自分のできないことをまた一つ知ってしまうことと同じだと思うから。 でも、「新しい」に触れないことには、僕らは自分が出来ないことを知り得ない。 だから、怖くても、恐ろしくても、そこに触れていくことには価値がある。 僕はそう思う。 安寧を求める。 それとはすごくかけ離れていることかもしれない。 でも、知らないことがあることを、ほんの

          安寧へと駆ける

          文章が書けない

          いつからだろうか。 自分が書いた文章に満足できなくなった。 「伝えたいことで溢れすぎて読むに耐えない」「これは要らない要素を孕みすぎている」 こだわらずに上げて仕舞えば良いのだろうけれど、自分がその文章に愛を持てないから、放置するようになった。 そうして積み上げられた「下書き」は数えることも嫌になるほど増えてきた。 「思考能力」と「表現力」、その二つが足並みをそろえて成長しないがために、こういうことが起こっているのではないかと思っている。 自分で言えたものではないが

          文章が書けない

          案外停滞していると感じている時ほど進んでいるのではないだろうか。

          花の成長を感じる時はいつだろうか。 芽が出た時。 葉の枚数が増えた時。 蕾が色づいた時。 花開いた時。 最も多くの人が、共通して成長を感じるのは「花開いた時」ではないかと思う。 けれども、花を開くために芽を出し、根を張り、葉をつけ、蕾をつけるその時間こそが、そのものの成長の本質ではないだろうか。 人間にもこれは共通するんじゃないか。とふと思った。 一年を通してみると、どこかのタイミングでフッと人脈の輪が広がり、前までできなかったことができるようになり、いくつも

          案外停滞していると感じている時ほど進んでいるのではないだろうか。

          2022秋、最近のこと

          段々と鼻を通る空気も涼やかさを帯び始め、秋を感じるようになってきました。 ここいらで今、自分が思うことや考えることを書き記し、まとめておこうと思います。 最近のことといえば、そう、ワールドカップに出場しました。 コロナやら世界情勢やらで未開催続きだったフィンスイミングの大会も、少しづつ平常運転してくれるようになり、やっと念願の国際大会出場を果たすことができました。 もはや持病と言ってもいいであろう足首の痛み「足関節後方インピンジメント」。発症時期が悪かったため、大会直前

          2022秋、最近のこと

          やってらんねーよ

          この状況は普通じゃないってことに気づいたら、無性に腹が立ってきたので書き殴らさせていただきます。 僕は部活で主将をやっています。 なんやかんやありまして、大学一年の秋頃から主将をやっているので、もう2年ほど続けていることになります。 主将の仕事の一つとして、部活動に関することを部員に周知したり、部がダレできたりしているとその辺を締めたりしなきゃいけないわけですが、このご時世なので、なかなか部活終わりにミーティング!みたいなことは出来かねます。 そういう事情を加味して、

          やってらんねーよ

          足関節後方インピンジメント症候群について

          医学については全くのド素人が書く、足首が痛くなる病気についてのメモくらいに思ってください。 僕の競技遍歴僕は現在、福岡県の九州産業大学でフィンスイミングという大きな足ヒレを履いて泳ぐ競技に取り組んでいます。 数年前に炎の体育会TVでお笑い芸人のオードリー春日さん達がやっていた競技です。 僕は高校一年生の11月ごろにこの競技を始めました。もうすぐで5年目になります。フィンスイミングを始める前は長らく競泳をやっていました。 そのため、高校の間は競泳の練習をメインで行いなが

          足関節後方インピンジメント症候群について

          答えを知るものはいない

          どう頑張って生きても、心から満ちたりた感覚というのは得ることが出来ないのではないかと思うようになってきた。 今日の自分は昨日の自分より優れているという確信を持っていても、満足することはできない。 自分は他の誰かより優れていると思い込もうとしても、満足するわけがない。 とある瞬間をとても楽しく感じたとて、部屋を暗くして目を閉じた時ふと感じる焦燥感。 これで良いのだろうかと不安に駆られたような感覚になる。 別に今が嫌だとか、そういうわけではないのだけれど、何だか物足りなく

          答えを知るものはいない

          二十一年生きた。あと何年生きられるだろうか。

          2022/07/17 今日は僕の誕生日だ。 いや、下書きするだけして投稿を忘れていたからもう昨日の話だな。 昨日で20歳も終わり、今日から21歳が始まる。 ありきたりな話だけれども、 若かりし頃の誕生日を迎える度のワクワクは、 10代の後半辺りから消え去っていってしまった。 ここ最近は、自分が生まれて、これまで生きてこられたことに対する感謝の念に想いを巡らせるようになった。 生きていると、楽しいことばかりではない。 辛いこと、めんどくさいこと、うんざりすることの連続で

          二十一年生きた。あと何年生きられるだろうか。

          僕を天才と呼ぶ人へ

          僕はしょっちゅう怪我をする。 去年も今年もどうしようもなくなって足首の手術をした。 けれどもフィンスイミングで学生日本代表になり、前回の日本選手権では2位となった。 2年前の僕は、デザインの「デ」の字も知らなかった。 本当に訳が分からなくて、すっとこどっこいな案をいくつも出した。 けれども一年生の時の成績を認めてもらって、2年時には学業特待に選んでいただき、去年はACジャパンの広告学生賞で奨励賞に選んでもらった。 僕は大学に入るまで一眼レフカメラなんて触ったことがなか

          僕を天才と呼ぶ人へ