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日記 2024.12.6(金) 再びブルーローズの夜。
7時ごろ起きる。わたしの場合、調子のよい時は7時ごろに目が覚めるということらしい。朝起きられない時はなかなか眠ることができなかった時でもあって、それはなにか行き詰まったり、やり残したりしていることがあってそれらがどこか引っかかっているのかもしれない。朝目が覚める時間、眠れない時間というものにもしっかりと着目していくと面白いなと感じた朝。
起き上がる前からいろんな考えが頭の中に湧いてきているのを感じる。でも不思議と焦りはなくて、ひとつずつ言葉にしながら丁寧に実践してみよう、と感じていておだやかだ。
今朝はすごく冷えた。昨日すこし油断してしまって喉がかさかさしている。梅生番茶の出番ですねと湯を沸かして番茶を淹れる。昨日、ごぼうのポタージュを作ってみた。ごぼうと玉ねぎとじゃがいもに昆布を入れてやわらかくなるまで煮て、ミキサーで撹拌して塩で味をつけた。かるべけいこさんのレシピにはごぼうと玉ねぎ、じゃがいもの分量や割合さえも書いていない。自分の力を信じてやってみよ、と声が聞こえたので頭の中で味のまとまりを考えながら、でも適当に、自分なりの分量で作ってみた。今回はたっぷりあるじゃがいもをたくさん使いたかったのでごぼうのポタージュというよりはじゃがいものポタージュになったかもしれない。一度作ればああ、じゃがいもが多いとこういう味になるのだな、ごぼうは香りがいいからハーブみたいに使えるんだな、玉ねぎはやっぱり出汁として甘みとしてポタージュには必要なんだな。いろんなことが分かってくる。ポタージュは口の中に入れたあとに噛み砕くという工程がない。その分それぞれの野菜のひとつひとつの風味にじっくりと集中することができるのかもしれない。固形のものを食べる時も、口の中でしっかりと噛み砕き、どろどろにしてから食べることでおんなじように感じられるというこだろう。早食いのわたしは野菜の外側の、さわりの部分しか味わえていなかったのかもしれないと思った。ポタージュはわたしの焦りに、おだやかさを与えてくれるおまじないのようなものになってくれているような気がした。もっといろんなポタージュをつくってみたくなった。
今夜は寺尾紗穂さんのコンサートへ行く。去年も同じ時期、同じ場所であったコンサートへ行った。わたしは昨年、あの日の出来事とあの日の気持ちをずっと忘れないだろうと思ったし、実際に忘れていない。去年また会いにきますと思った気持ちのまま今年もまた寺尾さんに会いに行くことができてうれしい。わたしは去年も無職で、いまもまだ無職のままでいる。でも、去年感じていた不安からは抜け出せているような気がする。心も体も壊れるほど考えながら手を動かし、無職を辞めそうになったときもあったがなんとか持ちこたえていまも自分自身と向き合うことを続けている。この先どうしたらいいのだろう、わたしはどうなるのだろう、もしかしてこのまま小さくなったままなのだろうか。漠然とした不安はまだあるけれど、はっきりと浮き上がってくる不安のひとつずつをことばにして、その都度対処しながら生きていくことができているのではないかと思う。これを成長と言わずしてなんというのか。よくやっているよ、とわたしはわたしに言ってあげたい。誰かと比べることには意味はなく、ただ自分を見つめ続けること、自分に着目し続けることが大切なのだということをこの一年の実践の中で学んだ気がする。
朝ごはんをゆっくりと食べ、図書館へ向かう。いつもよりもすこし早い時間に着いた。カフェスペースはいつもよりも静か。冷たくてでも気持ちのいい朝の空気がある。外のイチョウの木はいつの間にかすっかりと黄色く色づき、はらはらと落ちた葉が黄色い絨毯をつくり始めている。実家のイチョウの葉ももう落ちるころかな。わたしの指なし手袋とおんなじやさしい黄色。この色が大好きだ。
わたしは携帯のメモに家計簿みたいなものをつけている。簡単に項目を分けて使った金額を書き記し、一ヶ月分の合計金額を書き残しているのだが、それは今月使いすぎたなとか、食費がかかりすぎているとか、本を買いすぎ、なんてことを指摘するためにやっているわけではない。ただ、いまの自分の動きを客観的に見ようとするための作業に過ぎない。一ヶ月のお金の動きを客観的に把握できるとあとどれくらいこうして無職でいられるのだろうということも分かってほっとするからやっている。わたしはいつも、わたしを説明できる唯一の人でいたいと思っている。だからわたしのお金の流れをメモしておいて、時々見たりすることが結構面白い。わたしを知ることにもなるから楽しい。使ったお金の動きはその日の、その月の、わたしの動きの記録でもあると思うから。わたしを知るためのひとつの手がかりとして、家計簿のようなものをつけることは面白いことなのだと思う。
わたしは適切なところにお金を使うためにもこの家計簿をつけている。無駄遣いをしないためにもつけている。わたしは元々お金を使うということがそんなに得意ではない。大きなお金を自分のために使ったりすることが特に苦手でいつも躊躇してしまう。いざという時、ここだという時にお金を出せるようにするためにも家計簿は役立つと思っているし、不安な時に無駄遣いしないためにも役に立つとも思う。とにかく無駄遣いを防ぐことは重要だと思っているから。わたしのここぞという時は今ではない、いや今だ、ということを判断する時に家計簿は後押ししたくれたりするだろう。同時にお金はそんなに必要ないということも家計簿は教えてくれる。無職になり、ひとりになり、わたしはきちんと節約して生活水準を下げまくっているが、今のところ働いていた時よりもかなりしあわせを感じ、お金に対しての不安もほとんどなく、そして無理もせずに生活できている。家計簿をつけることはわたしにとって心強いパートナーを待つことなのかもしれない。生活水準を下げまくってしあわせって嘘みたいだけれど本当なのだ。
M-1の決勝進出者の会見が昨日あり、まいちゃんとその話でメッセージのやりとりをする。近ごろまたお笑いを観るのが好きになってきている。まいちゃんと時々お笑いの話をするのが楽しい。
まいちゃんとは高校生の頃にお互いお笑い好きということで仲良くなったからあの頃を思い出す。
わたしは幼少期から持ち前のネガティヴさを存分に発揮してずっと目の前が暗かった。この真っ暗な世界をどうにかしたいと思いながらどうしたらよいか分からずにいつも空回りしていた。そんなわたしにひとつの光を落としてくれたのは大きな声で笑うということだった。お笑いの話や面白かったことを共有し、友だちとつながろうとやってきた感じがする。誰かと普通にコミュニケーションを取ることが下手だったわたしは、歌うこと、モノマネをしたり笑い合ったりすることで人と話をしようとしていたところがある。うちはばあちゃんが笑い上戸だったからまずはばあちゃんを笑わせて練習していた。ばあちゃんはいつもわたしのおちゃらけている姿を見て爆笑してくれていた。それは認知症となり施設に入ったり入院したりしてからも変わらなかった。病室に入る時、帰り際、不意に変な顔をするとばあちゃんはいつもみたいに笑ってくれていた。ばあちゃんとはずっとずっと笑ってつながっていられたような気がする。
ばあちゃんで手応えを感じたわたしは人を笑わせコミュニケーションをとる、ということをいろんなところに試してきた。弟の気を引くために弟の好きなテレビ番組だっためちゃイケを観て出てくるキャラクターの真似をしたり、学校の友だちと仲良くなるために先生のモノマネをしたりしていた。わたしは人を笑わせるということは世界を救える、となんとなく子どもながらに思っていたのだと思う。身近な人を笑わせることで、わたし自身がしあわせな気持ちになっていることも感じていた。ことばにはできなくてもなんとなく、この道は自分を、みんなを、しあわせにできるような気がして進んでいたのかもしれない。
14時過ぎに図書館を出て家に帰る。明るい時間に家に帰るのはちょっと久しぶりな気がした。駅の中のお店で大好きな黒胡麻煎餅(入荷していた!)産直市場でなめこを二袋、アスパラ菜、ニラが130円で破格だったので購入。
家に帰って今日はお米が食べたいしお味噌も食べたかったので雑炊みたいなものを作る。ごぼう、玉ねぎ、長ねぎ、しょうが、なめこ、わかめ、アスパラ菜にニラをたっぷり入れて作った。ふうふう言いながら食べてしっかり温まった。美味しかった。
夜に出かけるからと思ってすこし横になっておくことにした。マットレスを敷いてもう帰ってきたらすぐ眠れるようにしておこう。出窓から温かい光が入ってくる時間に布団に入って横になる。気持ちがよかった。
目が覚めたら外は暗くなり始めていた。準備をしてすこし遠くの駅まで歩いてゆく。夕方の住宅街をゆっくり歩いた。さあ、楽しみな時間が始まる。
会場のサントリーホールへはすこし早めに着いた。成城石井で小腹を埋めるためのクッキーと、喉に違和感があるのでのど飴を買う。梅肉、生姜、フェンネル、シナモン、カンゾウなど入ったなんだかとっても効きそうなパッケージののど飴。すごく美味しかった。
予定よりすこし早めに開場し、サントリーホール、ブルーローズ(小ホール)へ入る。前から5列目くらいの端っこ、寺尾さんのピアノが正面に見える場所に座った。
昨年のコンサートは、演奏はずっと寺尾さんおひとりだったし、そういえばこれまでに参加したコンサートもおひとりの演奏ばかりだったなと気づく。出演者がたくさんだとどうなるのだろうとわくわくした。
前半は最後の二曲以外は寺尾さんおひとりの演奏だった。台湾のサックスプレーヤーの方を交えての新曲、「spring hymnのこと」という曲のメロディがすごく心地よくて印象に残っている。民謡のような、合唱曲のようななんだか懐かしい音の運び。学生時代を思い出し、なんだかじーんとした。
サックス、トランペット、ベース、ドラムス、ハーモニカと寺尾さんのピアノと声の共演はとってもすてきだった。「リアルラブにはまだ」、「楕円の夢」は全員での共演で、わたしはこれが本当に楽しくて体を揺らしながら全身で楽しんだ。大人なんだから、などと周りを気にしておとなしくしなくてよかったな、あとでほんとそう思った。寺尾さんの声を、ピアノを、たくさんの方との共演を、わたしもその場の参加者の一人として楽しむことができた気がする。泣いて、笑っていそがしかった。ほんとうに楽しい時間はあっという間に過ぎる。
アンコールの一曲目の加川良さんのカバー曲「こんばんはお月さん」を聴きながら涙があふれてとまらなくなってしまった。この曲を聴くとなぜかいつも映像がセットで出てくる。いつもは歌詞にあるような男性の姿なのだが今日はどういうわけかお月さんの下にはわたしがいて、わたしが空に向かってこんばんはーと言っていた。その時ふと、中学生の時に作ったおつきさまの絵本のこと、家に帰るのが遅くなった夜道、自転車を押しながら山道を帰るわたしの姿がよみがえってきた。
わたしはあの頃さみしくてさみしくて、誰かにこのさみしさをわかってほしいと思っていた。空を見上げてお月さんに何度も話しかけていたあの頃。孤独を最初に感じたあの時期のことを思い出し涙が止まらなくなってしまったのだ。
誰かにわかってほしくて話を聞いてほしくて、でもそれを人にどう言えばいいか分からなかったあの頃のわたし。でも、誰かとはほかの誰かじゃなくて、わたしのことだったんじゃないかなと思う。わたしはずっと、わたし自身に話を聞いてほしくて、分かってほしかったのだ。
わたしがほんとうに笑わせたかったのはわたしで、わたしが話を聞いてほしかったのもわたしだったんだ。さみしくて空を見上げ、話しかけていたのはお月さんではなくわたし自身だったのだ。
曲が終わる頃、わたしはなんだかほっとして安心して、体の力が抜けていた。わたしはあの頃のわたしを、救うことができたような気がした。