見出し画像

日記 2024.12.8(日) 縄文時代をとびはねる。

日曜日。だんだんと朝の冷たさが強くなってきている。お父さんから動画が送られてきて、実家は今朝雪が積もったらしかった。動画を送ってきてくれるくらいだから初雪、もしくは今期初の積雪だったのだろう。うっすらと庭に積もった雪を見ているとなんだかわたしの部屋の中も寒くなったように感じた。きっと実家は家の中もすごく寒いだろうな。もうちゃんと冬なんだなとようやく分かった気がした。遠くへ出かけようかと思ったがやっぱりなんとなく無理したくなくて、今日は図書館へ行くことにする。

油断しないで今日も梅生番茶から始めよう。鉄瓶を火にかけて湯が沸くまでに布団をあげる。着替えをして昨日の洗濯物も畳んでしまおうと手を動かす。ネルのパジャマをなくしてしまったという元住人に、履かなくなった部屋着用のスウェットパンツをあげようかと思う。彼のなくしたパジャマは元々わたしが着ていたものをあげたのだった。わたしはメンズのデザインの方が好きなのでパジャマもメンズのものを買うことが多い。大は小を兼ねるというけれど、本当にそうかもしれない。ちょっと太めの彼もパツパツでも着られるくらいのサイズではあるだろう。ついでにお母さんがたくさん買いすぎたからとくれたきび砂糖もあげよう。出番の少なくなってしまったモンベルの靴下もいるかな。余っているものは惜しみなく、必要としている人のところにまわしていく。それはすっごく気持ちのいいことだから当然やめられない。気持ちのいいことはどんどんやろう。いま必要としている人を見つけたら、どんどん持っているものを手放していきたいと改めて思った。

カップを両手に抱え梅生番茶を飲む。ここ数日の喉の違和感から油断せずに梅生番茶の手当てを続けている。わたしがわたしに目を向けて一緒に力を合わせようと協力すると、必ずわたしはそれに応えてくれる。ひと晩で熱も、喉の痛みさえも治って奇跡みたいなことも起こしてくれたりする。健気にいつも頑張るわたしの体と心に感謝したい。いつもわたしを助けてくれてありがとう。

図書館へ。今日は本を読みたい気持ちが高まっている。本を読みたくなっているのは昨日人としゃべったから、かもしれない。
昔よりは人としゃべるときに自分の気持ちを素直に話せるようになってきていると思うが、伝えられるようにしゃべることができているか、と考えるとまだまだそんな気がしない。やっぱり人に自分の素直な気持ちを伝えるというのは難しいことでもあるなと感じる。わたしには自分を表現できることばが少ないなといつも感じる。伝えたいことがあってでもことばが見つからずにぱくぱくすることがよくある。それは実践するから分かってくる。人と会いしゃべることでわたしの持っている言葉だけでは伝わらないということを痛感するが、人の反応を表情やしぐさなどの情報から感じ取ることができてとても面白いとも感じる。やはり人と会ってしゃべることは面白いことなんだなと思う。時々でいいから気心知れた人、そうでない人ともしゃべる機会、会う機会を増やしていきたいと思った。

さて、今日はどんな本を読もうかと検索機の前に来た。中沢新一さんという人類学者の方の本を一冊買ってまだ読んでいないのだが、今日は彼の本を開いてみたいと感じたので検索してみる。たくさんあるタイトルの中から気になった「野ウサギの走り」という本と、「神さま 日本のもと」を持ってきて開いてみることにした。

野ウサギは、人がつくりあげた価値とかモラルとかの裏をかく。こちらの世界から、たえず離脱していこうとしている。しかし、かといって野ウサギが完全にむこうの世界に、つまり無や死が支配するモノトーンな「ナッシング」の世界に溶け込み、姿を消してしまうこともない。むこうの世界からさえ離脱しているのだ。

中沢新一さん、野ウサギの走りより抜粋。

野ウサギは、こちらの世界とむこうの世界の両方に同時に足をかけ、たえずふたつの世界をいききしているシンボルとして度々彫刻などに用いられる。すらりと伸びたしなやかな足で、地面をけってとびはねていく野ウサギは、どちらの世界にも帰属することのない、境界膜を生きている動物なのだ。野ウサギぐらい自由でプレイフルな動物もいないような気さえしてくる、と中沢さんはおっしゃっている。野ウサギのことをこんなふうにみたことがなかったのでなんだか読んでいて楽しくなった。
中沢さんは続けてこうも言っておられる。

たとえ生物としてオスの体をしていたとしても、いつもどこか女性的な感じがするのは、そのためだ。意味や価値やモラルでできたこちらの世界をささえているのは、男の性である。女の性のほうがしなやかな流動性をもち、こちら側の生の世界とむこう側にひろがっている死と無の世界との境界膜上で、ふるふると振動しつづけていられるような生き方がしやすいせいだ。野ウサギは、そういう女の性がもっているもののなかの、いちばんプレイフルな部分とつながりをもっている。そのせいで、野ウサギは表現や想像力の世界では、グレートマザーでもなければ、家庭を守る妻でもない、自由な性を楽しむ女性として登場してくるようになる。生殖にも、家庭にもしばられることのない性を享楽する女性としての野ウサギ、「プレイボーイ」のカバーガールは、だからどうしたって、すらりと伸びた肢体をした野ウサギじゃなければならないのだ。バニーガールの格好に、古いヘルメスの神話のエコーを聞くのも悪くはない。

中沢新一さん、野ウサギの走りより抜粋。

野ウサギにわたしの自由を見たような気がした。ああ、わたしはこうやっていろんなところを飛び跳ねてみたい、そう思った。わたしの思う自由を言葉にするとこんな感じなのかと思い、なんだか面白い。

持ってきたもう一冊、「日本のもと 神さま」も読んでみる。
縄文時代、神さまというと火やイノシシ、シカ、魚も貝も、クルミやクルミの木の実、山菜だって神さまという考え方だったらしい。人々は生と死を身近に感じながら自分たちで捕まえた命を食べて生きてきた。生きているすべてを家族のように愛おしむ気持ちがあり、命あるものへの感謝の気持ちから日本の信心は始まっているのだという。自然界の全てに神さまがあふれていると信じる考え方を「アニミズム」と言い、お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃん、そのまたお父さんやお母さん、さらにそのご先祖さまから代々受け継がれてきたものももそのひとつ。縄文時代のその考え方は弥生時代になり稲作が発展して変化してくる…。
読みながら、ありとあらゆるものに神が宿るという考えをはじめて理解できた気がした。そしてその考えにわたしも大いに賛同する。

弥生時代に稲作が始まり身近だった生と死から少しずつ離れていくようになり、人間はより多くのものを求めるようになっていった。貧富の差ができ争いが生まれるようになったのも稲作の発展によるものなのだろう。その後、仏教やキリスト教、様々な信仰も受け入れてきた我々の国だが、そこにはお金というものがいつも絡んでいるように思う。お米も通貨のような役割を果たしていたのだろうし。わたしは歴史のことはよくわからないがなんとなくそんなふうに理解した。

無職になった時、わたしはやりたかったことすべてやってみようと思った。その気持ちを大切に取り組んでみようと思ってやってきた。ある程度やりたいことが叶ってきた時にわたしはふと気づいた。わたしがやりたかったことは、お金を追い求めなければ全てできると。そもそもわたしはお金を稼ぐこと自体にはまったく興味がなかったのだ。
しっかりと働き、給料交渉もしっかりやったりして満足のゆくお給料をもらえるようにやってきた時期もあった。でもそれは誰かのためだった。コロナ禍に職を失い、住む場所も失いそうになった友だち(元住人)を助けるためだった。わたしは目的のために働いていたから楽しかったんだな、今になって思う。目的があればスパッと切り替えて労働できる。目的が定まっているのだから労働も苦にはならなかったし、その頃はむしろ楽しんでいきいきと働いていた。しかしその職を失い、元住人にも家を出てもらい、わたしには働く目的がなくなった。すこし貯まった貯金もあったから節約しながら小さく生活できればいい、生きていけるだけのお金があればなんとかなる、そう思うようになった。その時はじめて、わたしはお金をたくさん稼ぎたいと思ったことがなかったと気づいたのだ。

わたしにはいま、働く理由が本当にない。けれどやりたいこと、試したいことはアイデアとして毎日湧いてきていてそれらをどうにかしようとやっている。この先の見えない無職の日々は、実際不安でいっぱいではある。それで時々小さくなったり、死にたくなったり、眠れなくなったりする日がある。でも、その不安のひとつひとつと向き合い、解決したこともある。出てきた不安にその都度対処する方法を、わたしはいま身につけようとしているようにみえる。わたしはこのまま、この日々を続けたい。やりたくないことはしない、楽しいと思うことだけやっていくのだと心に誓ったのだ。貯金を使い果たすまではこのまま実践の日々を続けていく覚悟でいる。やってみるしかない。少しずつ見えてきたものがある。それを逃さないためにもやめたくない。わたしの旅はまだ始まったばかりなのだ。いまはわたしの時間を丁寧に大事にすべきだと感じる。

縄文時代の小さな暮らしに学び、目の前にあるもの、そばにあるものを大切にしながら、野ウサギのように自由にいろんなところをとびはねることはできないだろうか。中沢さんの本を読んでいるうちに、わたしの中にかわいいイメージが湧いてきたのだった。

いいなと思ったら応援しよう!