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2:「私の個人主義:夏目漱石」20201106
とりあえず読んでみなさいと薦められ
タイトルにある「私の個人主義」の項しか読んでいませんが
薦めてくれた人もそれだけでも十分よかろうと言っていたので
まあ、まあ、よいのだろう、書く。
文学と小説って、明らかに違うものだと思うんだけど
その違いを上手に言語化することって、すごく難しい
個人的には
【小説】
その土台にこそ著者の思想や価値観がうっすらと現れるが
それよりもエンターテイメントの性質の方が色濃い。
驚き・感動・恐怖、なんでもいいけど
〝読者の心を動かすことが目的の読みもの〟である。
【文学】
土台だけではなく、その文章のすべての言葉に
〝著者の思想や哲学を背負わせて、著者の体外に出すための手段〟である。
結果として読者の心を動かしたとしても
著者にとってはそれはあまり重要なことではない。
みたいな捉え方がしっくりきている
それじゃあこの「講演を文章に起こした本」は何に当てはまるんだろう?
と考えていたんだけど、答えがね、出ませんでした
ぶっちゃけそんなのマジでどうでもいいと思うんだけど
この不思議な感覚もちょっとね、残しておきたい
なんかこう、いちいち
「はい!はい!質問!」って言いたくなる感じ
なんで漱石は今ここにいないんだっていうさびしさ
なんだろな、教えてください偉い人
で、だ。
読後の結論から正直に言ってしまえば
講演の内容、すなわち漱石が言いたかっただろうことは
もともと自分の中にあった考えだったから
目からウロコ的な発見はなかった
というかむしろ
「この先きっとさらに核心に迫るような思想の展開があるのだろう!」
という期待で読み進めた矢先に終わっちゃったから
あれれ?な気持ちもあった
そんな自分がもともと持っていた思考を踏まえて
考えてみると
漱石の個人主義思考の一番最初の原点は
【人は誰しも自由に生きて良い】
おそらくここだと思う
こう言ってる。
〝どうしても、1つ自分の鶴嘴で掘り当てる所まで進んで行かなくっては行けないでしょう。行けないというのは、もし掘り中てる事が出来なかったら、その人は生涯不愉快で、終始中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。私のような詰まらないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、あなた方から見てその道がいかに下らないにせよ、それは貴方がたの批評と観察で、私には寸毫の損害がないのです〟
自分が自分で生まれたこの命を賭けて
価値があると信じた1つのものを
一番奥まで見通してみたい。
その内容や道のりがどんなものだったとしても
個人が自由に選び進んだものであって
そこに他人の価値観など関係がない。
そう言ってると思う。
だけど、本文でも言及されていたように
この部分だけを切り取ると「個人主義」という思想が
「自由を履き違えたワガママだらけの世界」を作ってしまうことになりかねない
そうではなくて
そうやって自分の自由を尊重する価値観を持っているのであれば
それを他人にも許すことは当たり前のことだろう?
ということ
「自由」と「自分という個人の存在」を認めるための
前提として存在する「自分以外の個人の存在」を認識することの重要性の示唆、すなわち
【自分以外の人間も同じように生きていて、同じことを思う権利がある】
ということを主張したいのだと思う
この当たり前じゃね?っていう感覚は
私が勝手にそう思って、多分漱石もそう思ってると思って書いている
何をきっかけにその感覚が生じたのか、自分でもわからないんだけど
結局は「自由」も「自分」も、「自分以外の何者か」が存在しないことには
成り立たないのだ、ということにも繋がってくるから
対人関係における絶望みたいなものがあったのかもしれないな
自分の自由を大切にするために
他人の自由も大切にするべきだと感じた経験が
逆も然りだね
そういうことな気がする
だから
〝公平の目を具し正義の観念を有つ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければ済まん事だと私は信じて疑わない〟
っていう強めな主張がすごくすごくしっくりくるし
その部分に、それまで漱石が感じてきた激しい怒りみたいなものも感じる
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〝主義〟なんていうと仰々しいけど
漱石が使う「個人主義」は
「個人」と「主義」という言葉の意味にすごく忠実だし
道徳的、人間的な価値観の強さを表すには
抜群の言葉なんじゃないかと思う
誤解がちょっと怖いけど
あれこれ考えたり、行動に移すまえの大前提
どんな環境でも、どんなに非人道的な状況でも
まずは人がそれぞれ生きているということ
そこの部分を、みんながしっかりと理解していれば
そもそも仲違いとか、争いとか、ないんじゃないの?っていう思考回路
やや飛躍しすぎな気がしなくもないが
そういう部分まで繋がる考え方だと思う
まあ現実は難しいんだけどね
人間に生まれてきちゃった以上は
厄介かつ最高な人生の要素である
「感情」ていうものがついてまわっちゃうからね
………漱石は、感情についてどういう考えを持っていたのだろう
と考えていたら、そういえば講演の後半でこんなことも言っていた
〝党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。既に党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです〟
ここで言及された感情「淋しさ」こそが
「個人主義」がただの自分勝手な価値観の暴投では決してないという何よりの証拠であり
なおかつ
夏目金之助という1人の男が
きちんといろんな人と関わっていろんな事を思って
人生をちゃんと生きていた証拠なんだろうなと思う
淋しさ。
こころがいつも孤独であるからこそ
他人を許せる懐の広さを感じるけど
そこに至るまでにきっと
ものすごい精神と身体の矛盾を感じたりもしたと思う
真偽はわからないけど妻や子供に暴力振るってたという記録もあったし
彼自身が1番辛かっただろうな
夏目漱石の文学観とも言われる「則天去私」の境地は
諦観がないと成立しないと思うのだけど
淋しさってその根っこにある感情なんだろう
そこが人間としてとても愛おしい部分で
精神を患って、人格コントロールが出来ない事があったとしても
人間としてとても信用できる人物であると、私は強く感じたな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
うん、楽しいな。
全然まとまりがないけど、楽しいな。
普通「夏目漱石を読もう!」ってなったら
『こゝろ』とか『坊ちゃん』とかな気がするし
半年くらい前から
「『三四郎』を今すぐ読まなければならない」という
謎の強迫観念を持っていたのだけど
結果、漱石が晩年におこなった講演を文章に起こした
この『私の個人主義』を一番最初に読んでよかったと思った
文豪であるということは知っていても
彼がどんな人生を歩んでどんな気持ちでその時を生きていたかは
彼はもう死んだから、誰にもわからない
いや生きていようがわからない
けど多分、漱石の他の小説を読んでも
「この人どんな人生送ってきたんだろう?」
「子供の有無によっても思想の出発点って変わるんじゃないか?」
「誰とどんな会話をしてたんだろ?」
「てか…どんな声してたんだろ?」
なんて、超個人的な部分まで知りたいとは思わなかったと思うから
話し言葉で、今の私に語りかけてくれた
だから、これが一番最初で本当に良かったと思う
ありがとう
夏目漱石(夏目金之助)
1867年2月9日〜1916年12月9日(49年と10ヶ月)
ん!水瓶座だ。
幼少期は、かなり複雑(個人的な意見です)な家庭環境で過ごす。
帝国大学英文科卒業後、松山や熊本で教鞭を執り、イギリスへ留学。
イギリスで感じたことも、漱石の思想に深く関わっていると、講演中に語られていた。
帰国後は第一高等学校と帝国大学の講師として英文学を教え、
その傍らで、自らも執筆活動を始める。37歳頃。
この時、一高で受け持っていたクラスに在籍していた
藤村操という少年が、滝に身を投げ自殺したことが
漱石の内面に大きく影を落とし
のちに神経衰弱になったのだろうとも言われている。
(藤村君が自殺した理由なんて、誰もわからないのにね)
結婚は一度。29歳のとき。
配偶者は10個年下の鏡子(キヨ)。子供は2男5女。
鏡子さんも、調べれば調べるほど興味深い人物だ。
漱石の事を芯で理解しようとした、
んー、していたんだろうな。
雄々しく利発な人だったんだと思う。
漱石43歳のとき、胃潰瘍の療養のために行った伊豆修善寺で大量吐血し
生死の境をさまよう。
それから何度も何度も体調不良で倒れながら
講演をしたり執筆をして過ごす。
そして1916年、体内出血を起こし49歳で死去。
最後の長編小説『明暗』の執筆途中だった。
※ほぼwiki情報
うん。
なんか、この情報だけ読んでも、
夏目漱石読みたいってなるな。
けどあれだな、血吐いてもう自分長くないなって感じたからこういう話したのかもしれないけど、
この「他人も当たり前に生きている」って感覚って、そんなに頑張って伝えないとみんなわからないものなのかね?
そりゃ感情があるから愛したり憎んだり色々あるとは思うけど、肉親でもなんでも他人だって生きてるわけじゃん。
言動には理由がきっとあるじゃん。
そこを想像するってこと、あんまりしないのかな。
ドライに割り切るからこその考え方なのかな。
考えれば考えるほど他人のことなどわからないと分かってしまって
もう疲れちゃったなあ
難しく考えすぎかな
いつになったらわかるんだろ
書いてるうちにどんどん気が滅入るけど
それは絶望ではなく、未知の領域の果てしなさに対する希望に近い
諦観。諦念。
あきらめが、あきらめではないこのニュアンスは
どうしたら伝わるのだろうな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
スーパーの屋上駐車場
坂の上にある住宅街
小高い公園の丘にある空間
観覧車のてっぺん
展望台
登った山の頂上
そこから見える景色が
人混みでも、連なる家々でも、巨大な建物でも、行き交う車でも
自分以外の他人の存在を感じられる場所が
私はやっぱり好きだ
1人でいるから、他人を感じる
他人がいるから、自分が見える
それぞれの中に、それぞれの中身があることを忘れたくない
干渉はしないけど、忘れたくはない
まっすぐに自分を見つめて
だけど
同じことを思う権利のある生き物が周りにいることだけは常に忘れず
それぞれの時間を生きればいい
忘れそうになったら、また上から眺めたらいい
みんなそれぞれ心があって生きているということを
絶対に忘れたくない
場合によっては
他人の心を大切にしすぎて、自分の本心を軽視してしまうこともあるかも知れない
けどそれではダメだ
誰かがいるから君がいて
君がいるから誰かがいる
それぞれが個人として存在している事を
きちんと認められる深く広い視点を持ち
自分自身も生かしてあげなければ
人生やってる意味が薄れてしまうから
尊重の淋しさを乗り越えた道の先できっと
それぞれなにかが見えてくるさ
それが、現代の私の個人主義。
きみは?
きみの場合は?
いつか、聞かせてね