結婚制度は難しい。


母方祖母、母、ワタシ。
三人とも「幸せな結婚、幸せな家庭」を築いたことがない。
ドラマでよくある普通の結婚や家庭。

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1.祖母の結婚
祖母は戦中に第一子として生まれ、きょうだいが10数人いるらしい。
きょうだいを育てるために祖母は学校を卒業した後、小学校の教師見習いとして職業に就いた。
昭和初期に当時の結婚適齢期を過ぎた祖母だったが、お見合いで祖父と結婚。
二人の子をもうけた。
祖父は家から遠く離れた場所で商売を営んでおり、帰宅するのは月に数回。家庭を支えるためのお金も入れたり入れなかったりで、祖母は教師を続けながら二人の子どもを育てた。
産後すぐに仕事に復帰し、乳幼児のころの母は乳母や祖母と過ごしたらしい。

祖父は商売を営んでいた地でも家庭があり、子どもがいないものの愛人と日々を営んでいた。そんな祖父はガンで50歳代で他界。
遺産で祖母と愛人はある程度もめたらしいが、経済力があり本妻としての立場がある祖母が取り仕切りことを収めたらしい。

2.母の結婚
祖父の帰宅は月数日、祖母は仕事のため不在がちの環境で育った。
兄が一人。
兄は気が強く勉強も運動もでき、周りからは比較されて育ったらしい。
自己肯定感が低い母は自由恋愛で結婚する人も多くなった昭和の中頃、恋人ができることがなかったらしい。
知人のすすめでお見合いし、結婚。

父は小さな農家の長男で後継ぎとして熱望されていたが、本人はあまり気乗りがしていなかった。
というか、プレッシャーに耐えられなかったようだ。
新婚時には父の実家で同居生活をしていたらしいが、父はもともと家族との仲が良くなく、祖母と母との折り合いが悪く、また独特な地域の習慣に父も母も慣れることができず、ワタシの出産を機に別居。その後もきょうだいが二人うまれ、三人の子どもを持った。

結婚後、7~8年は仲良かったのかもしれない。
しかし、10年目ころには両親は意思の疎通が難しいくらいに関係が悪くなっていた。
ワタシを通してのみの会話。

ワタシが高校生の頃、父が自死。
働いていた会社が縮小し営業所がなくなり転職。若い頃にお世話になった方の娘さんの借金の連帯保証人になってしまっていた。
ただでさえ生活費に家のローンを抱えていた父は限界だったらしい。

父が亡くなり、母はポキっと折れたようにうつ病を患った。

3.ワタシの結婚
20代中頃、ブラックベンチャーで働いていたワタシは仕事の発注先のスタッフとして元配偶者に出会った。
とても好きで好きで結婚しようと思った。
家事もできる、仕事をして生活費を一人で賄える。
話すことでコミュニケーションが取れる。
好きという気持ちとそれだけあれば十分だと思った。

結婚が決まり、結婚準備を始めたころから違和感を持ち始める。
準備はしないのに高圧的に指図だけする。
使用する会社はあちらの指定。でもあいさつすらしない。
結婚式準備から感じた違和感はその後離婚するまで続いた。

妊娠直後、ワタシがリストラで仕事を退職。
その後から、経済的DVやモラルハラスメントが続いた。
家計を握っている元配偶者からは食費消耗品費として月3万円の生活費しかもらえなかった。
子どもの出産準備すらできない。
貯金を切り崩し、子どもを5か月で保育園に預け始めるまで細々と生活した。

子育て家事は完全ワンオペ。
気分が乗っているときはかわいがってはいたが、子どもが泣けば怒鳴られた。
まだ父になったばっかりなのだから仕方ないと、あきらめ淡々と生活をした。
しかし、二人目の子どもが生まれても変わることはなかった。
それどころか大きくなった上の子が失敗をしたりすると、怒鳴りつけたり時には手をあげた。
二人目の子が大きくなっても同じく、怒鳴ったり、寒い真冬の外に引きずり出して叱った。
父の自死はお前のせいだ!と責められたり、太ってるくせにと体型を揶揄されたり、無断で体をべたべたと撫でまわしたり、貯金を使い込んだり、カードローンを組んで手に負えないくらいになってしまったり。
目立つ物理攻撃以外のことはすべて受けた。
元配偶者は頭が良いので、物理攻撃はわからない程度にしかしなかった。

コロナ禍で仕事が急に少なくなった元配偶者はイライラが収まらない。
常に貧乏ゆすりをし、イライラしている。
なにかあれば怒鳴り、にらみつけた。
話し合うことはできる状態ではなかった。

このような環境で子どもたちは癇癪を起したり、無力感倦怠感を持つようになった。
ワタシさえ我慢すれば、と思っていたがそうはいかない状況になった。

無気力、涙が出る、眠れない、泣きながら起きるなどの症状が続いていたため心療内科を受診。適応障害(抑うつ)と診断される。
それから役所、ハローワーク、法律相談、支援系NPO、公営の相談機関、警察、児童相談所とあらゆるところに相談に出かけ、子どもと三人で生きる道を探った。
重い体を引きずり、パートの勤務は休まず続けた。

今後の生活のおおよその算段が付き、話し合いをすることは無理だと判断し、友人たちに手を貸してもらって昼逃げをした。
その後、自分で離婚調停を申し立て、離婚手続きまでやりきった。

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戸籍を切り離すのは本当には大変だ。
ワタシが離籍し、その後、親権者として子どもたちを元配偶者の戸籍から離籍するための申し立てを裁判所にする。
申し立てが許諾され、役所で入籍をする。
他人同士の結婚より、親子なのに本当に煩雑な作業だった。

結婚制度というのは人を守る制度だと考えていたが、甘かった。
結婚し、同じ戸籍になってしまうと中のことは誰も助けてはくれない。
肉体的、経済的強者が猛威を振るった時、ただただおびえるだけしかできない。

祖母も、母も、私も。
もっと努力しろ!と言われればそれまでかもしれないが、子どもと自分の命を守るだけで精一杯で、まさか配偶者にいろいろな形で裏切られるとは思っていなかった。

戸籍というくくりで考えず、性別という形で考えない。
今後は自分にも優しく人にも優しくいろいろな形の家族ができたならいいなと思っている。

でも、当分は今は子どもたちとの生活を満喫していようと思っている。

#これからの家族のかたち

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