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昭和の100人「大橋巨泉」

  文芸春秋新年特大号の特集「昭和100年の100人」から大橋巨泉さん(1934年~2016年)について、キャスターの小倉智昭さんが語る記事を取り上げます。
 
 ご存知のように、小倉智昭さんは今月(12月)9日に膀胱がんで亡くなっている。文芸春秋が発売されたのが12月10日だから、亡くなったのはその前日だったことになる。はからずも、故人を偲ぶ記事を故人が語る記事になってしまった。
 
 私にとって、大橋巨泉さんの印象は何と言っても11PMの司会だ。当時は高校生、大学生、鉄鋼技術者の駆け出しの身にとって11PMは真逆の世界、殆ど見なかったが、逆に興味はあった。ふざけた人ではあるが、ゴルフはシングル、ボーリングもプロ並み、誰にも言わなかったが、密かに憧れてはいた。
 
 以下、Wikipediaを参考に、簡単に大橋巨泉さんを振り返ってみる・・・・
 
最初の妻であるマーサ三宅と結婚後、実家の大橋商店に勤務するも「自分にはサラリーマン生活は無理」とすぐに辞める。ジャズ喫茶に出入りするうち、ジャズ評論家・放送作家からテレビ司会者に進出、弁舌家のタレントとして人気を得る。
 
 1960年代から1980年代にかけ、『11PM』や、TBS『クイズダービー』、毎日放送『世界まるごとHOWマッチ』などの司会で名を馳せる。「野球巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズ通り、競馬野球麻雀の評論でも活動し、ニッポン放送大橋巨泉の責任プロデュース 日曜競馬ニッポン』のパーソナリティを務めた。その後は1990年3月に「56歳になったし、身を引いて司会業は長くやるものではない!」とTBS『ギミア・ぶれいく』以外のテレビ・ラジオのレギュラー番組を全て降板して、メディア業界から「セミリタイア」(後述)した。
 
 2005年5月、胃癌を患っていたことが判り、6月に摘出手術を行った。毎年11月中旬から翌年3月中旬までオーストラリアとニュージーランドに、5月のゴールデンウィーク後から9月中旬までカナダに滞在し、オーケーギフトショップの管理の傍ら、ゴルフを楽しむなどの生活を送った。日本に帰国するのは3月末からゴールデンウィークまでと9月中旬から11月上旬までであった。bhb逝去まで一貫してこのスタイルで生活していたことから「出稼ぎタレントのパイオニア」とも呼ばれるようになった。
 
 2013年 11月、中咽頭癌を発症し摘出手術を受ける。以降、各部に癌が発生、その都度手術、放射線などの治療を受ける。2016年7月12日急性呼吸不全のために入院先の千葉県の病院で死去。82歳だった。
 
 好感度ナンバーワンタレントというタイトルは一番要らないと公言し、「そうなったらその時点で辞めようと思っていた」と言っていた。「自分は黙っていたってスターだから、自分の周りの共演者たちをスターにすることを、司会業をする上で心がけていた。それが全部自分に帰ってくるから。でもヨイショするのは嫌だし」といった持論を展開していた。
・・・・・・
 
 文芸春秋の記事に戻って・・・・
 小倉さんがテレビ東京のアナウンサーで競馬中継を担当していた時、巨泉さんに「ニッポン放送で番組をやる気はないか」と誘われて退社し、巨泉さんの事務所でお世話になった。その後、1983年に巨泉の番組のナレーターに起用され、キャスターとして飛躍した。
 
 以下、小倉さんの弁を抜粋、転記します。
・・・・巨泉さんは何事も掘り下げて勉強する貪欲な人。スポーツから政治まで何でも詳しかった。・・・
 巨泉さんは、企画の段階から番組に関わっていました。・・・頭の中には「こうすれば視聴率が取れる」というイメージがあり・・・
 1987年に始まった日本テレビの「こんなモノはいらない?」にも巨泉さんのこだわりが詰まっていた。世の中の「いらないもの」を斬るバラエティ番組で、「NHK」や「オリンピック」を取り上げるなど、今では放送できない内容ばかリ。僕は巨泉さんの質問に答える役割でした。・・・・
 
 どうやら、小倉さんは、巨泉さんに心酔していたようだ。最後に昨今のテレビを皮肉っている、というより、諦めている言で結んでいる。
 
 ・・・・僕は「ミニ巨泉」なんて言われていたけれど、ミニにすらなれない。あれほど情熱を持って仕事に取組み、自分を貫ける人はもうテレビ界には現れないでしょう。令和のテレビ番組を見るにつけ、巨泉さんの偉大さを実感する日々です。

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