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昭和の100人「本田宗一郎」 

  文芸春秋新年特大号の特集「昭和100年の100人」から本田宗一郎(1906~1991)を取り上げます。
 
 例によって、記事冒頭の紹介は・・・・
 昭和23年(1948年)に創業した本田技研工業を世界的大企業にまで成長させ、アジア人初の米国自動車殿堂入りを果たした本田宗一郎。息子の本田博俊氏が父の姿を語った。
 
 以下、ウィキペディアを参照して、彼の生涯を簡単に振り返ってみます。

  • 1992年 高等小学校卒業、東京都本郷区の自動車修理工場「アート商会に入社。

  • 1928年 アート商会に6年勤務後、宗一郎ただ1人だけが社長ののれん分けをゆるされ、浜松市にアート商会浜松支店を設立して独立。

  • 1935年 小学校教員の磯部さちと結婚。

  • 1937年 自動車修理工場事業を順調に拡大、「東海精機重工業株式会社」(現・東海精機株式会社)の社長に就任。エンジンに欠くべからざる部品としてピストンリングに目をつけるが、経験からだけではどうにもならない学問的な壁に突き当たり、浜松工業高等学校(現・静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、3年間金属工業の研究に費やす。

  • 1939年 アート商会浜松支店を従業員の川島末男に譲渡し、東海精機重工業の経営に専念する。

  • 1942年 長男・博俊誕生。豊田自動織機が東海精機重工業に出資、自らは専務に退く。

  • 1945年 三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機に売却して退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入る。

  • 1946年 浜松市に本田技術研究所を 設立。39歳の宗一郎は所長に就任。

  • 1948年 二男・勝久誕生。本田技研工業株式会社を浜松に設立。同社代表取締役に就任。従業員20人でスタート。原動機付き自転車を考案して二輪車の研究を始める。

  • 1994年 のちにホンダの副社長となる藤沢武夫と出会い、共にホンダを世界的な大企業に育て上げる。

  • 1973年 本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任することを発表。研究所所長は続けた。

  • 1983年 取締役も退き、終身最高顧問となる。

  • 1991年 東京都文京区の順天堂大学附属病院にて心不全のため死去。
     
     私が学生時代、2輪車の本田技研が、本田スポーツ360、500を出して4輪車に進出した時は衝撃だった。当時の国産車は全てファミリーセダン、スポーツカーなど思いもよらなかった。その後軽自動車の本田N360を出して本格的に4輪市場に参入した。当時の軽自動車(メーカーはマツダ、スバル、三菱など)は最大排気量が360㏄に抑えられ、最大出力は20PS程度に過ぎず、道路の左端をチョロチョロ走っていたが、N360は同じ360㏄で30PS以上の高出力で普通車に伍して走っていた。
     
     その後も本田は既成の常識、技術を抜きさる斬新な新車を世に出し、瞬く間に日本を代表する自動車会社に成長した。
     
     文藝春秋に戻ると、長男の博俊氏が、宗一郎氏の家庭内の話を暴露している。以下、抜粋すると・・・・
     仕事は素晴らしいらしいんだけど、父親としては無茶苦茶。僕も反撥することが増えてきました。周りから親父と比べられるのも嫌で、一時期は顔を合わせる度に喧嘩していました。「会社のことには口を出すな」というのが親父の口癖。決して家族・親族を会社に入れようとはせず・・・それでも血は争えないというのか、気が付けば僕もレースと車の世界に足を踏み入れ、自ら「無限」を起業することになりました。偶然にも「無限」を設立した1973年、親父は本田技研工業の社長を退きました。66歳の時です。
     親父は以前から「豊臣秀吉のようにはなりたくない」と話していました。最後まで権力にしがみつき、息子に世襲させようとしたを「ぶしょったい」と言うんです。遠州弁でダサイという意味です。・・・
     ・・・息子が言うのも何ですけれど、最後まで粋で、カッコイイ生き方を貫いた人だったなと思います。

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