新潟時代1 社宅
2000年からの新潟時代は我会社人生の大きな転機だった。記憶の定かなうちに、当時を振り返ってみることにする。
1.社宅
案内された社宅は旧いコンクリート剥きだしのアパートだった。
2000年2月に新潟の子会社、○○精密株式会社(N社)に出向を命じられた。53歳での出向は珍しいことではないが、それまでの社内での立場を考えれば、明らかに左遷だ。それでも、規模は小さいが会社のトップには間違いなく、牛後より鶏頭だとの気負いもあった。住まいは、横浜の自宅はそのまま維持して、妻と二人で新潟に仮住まいすることにした。2月末、転居先の社宅を確認しようと、新潟駅からタクシーで10分程のN社に赴き、敷地内の社宅に案内してもらった。
社宅は会社敷地内の厚生地区にあり、独身寮、体育館、ゴルフ練習場に囲まれて緑が多く環境はいいのだが、ともかく旧い。よくある団地式の5階建て、勿論エレベーターはない、総戸数30戸程度、うち半分程度が空き家だとのこと。私は一番手前入口の3階の一戸が当てられていた。入口の戸を開けると、直ぐに台所、一角にトイレと風呂場があり、奥が4.5畳と6畳の和室、それだけだ。新婚時代に3年ほど住んだ社宅とほぼ同じ間取りだが、こちらのほうがずっと旧い。
当時、長男は2年前に就職して喜び勇んで(?)横浜の家を出て北海道に赴任していたし、次男は就職が決まって4月から神戸に赴任が決まっていた。3月末、我々夫婦は新潟に向かい、同時に次男は神戸に向かい、晴れて(?)一家離散だ。
新潟の社宅には先に送っておいた荷物が届いており、若干の整理をし、4畳半に座卓を置き二人の定位置が決まる。一日中風が強く、窓の隙間からご~ご~と音が聞こえて煩いし、テレビの画像が揺れて移りが悪いが、ともかく新婚生活その2がスタートした。社宅生活は以降8年半に及ぶが、当時はそれほど長くなるとは思いもつかなかった。
4月1日、N社に出社初日、会社の状況について一通りの説明は聞いていたが、本当のところは何もわからず、全てが初体験。就職して以来の初めてレールから外れ、世界が変わった初日だった。
トップ画像は麒麟山温泉、阿賀野川沿いを散策する監視人殿
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