高級老人ホーム顛末記
毎月文芸春秋の巻頭に、各界の7,8人によるエッセイ(2,3千字)が、記載されており、中には意外な人が意外なテーマを取り上げていることもある。11月号では、ライブハウスロフトの創設者、平野悠氏の文が興味深かった。
平野悠氏は1944年生まれ、私より3年上だから現在80歳、大学時代に新左翼運動にはまり中退、郵政省に入るが、新左翼運動で3回逮捕されて郵政省を辞める。
1971年にジャズ喫茶「烏山ロフト」を開店、以降、西荻窪、下北沢、西新宿などに展開したが、いずれも数年で閉鎖している。割り切って傷の浅い内に措置していたのだろう。1990年代に入り、ロフトプラスワンとして、ライブハウスのシリーズを、新宿、渋谷、横浜、高円寺、下北沢などに展開している。
以下、彼のエッセイを要約すると・・・・
75歳の時にロフトグループの会長職を辞任したこともあって、終の棲家を探し始めた。最終的に千葉鴨川の高級老人ホームにたどり着いた。入居金6千万円、月々の支払を含めると77歳で入居し90歳まで生きたとすると1億円以上かかる計算だ。
16歳年下の妻とは30年以上セックスレスで、家庭内別居状態、顔を会わせることも口を聞くことも殆どなかったが、妻に離婚の意志はなかった。
いざ入居すると、快適そのもの、好きな音楽を聴き、たくさんの本を読み、過去を追憶して一日を終える。しかしながら、入居者の多くは元経営者、元外交官など、社会的に成功した人が大部分。話がかみ合わず、自室に引き籠るようになった。
いつしか、新宿の街を歩きたい、古い友人にも会いたいと思うようになり、2年で都内の自宅に戻った。妻からは厳しい反応があると覚悟していたが、意外にも「いざという時は、私が面倒見る」とのこと。彼女がなぜそう言ってくれたのか、理由をまだ聞けずにいる。東京に戻って半年以上たつが、映画を撮ったり、本の執筆に取り組んだり、忙しい日々を送っている。
・・・・といった概要だ。
私も老人ホームはそれなりに探していた(いる)が、今のところ、普通に2人で暮らせる限り、人形町から離れる気はない。しかしながら、いつか、私が今の状態で暮らせなくなるのは間違いない。監視人殿に面倒を見てもらえるか、その時、監視人殿自身が面倒を見ることが出来る状況か。夫婦同年は、話がよく合い普段はいいのだが、最後は少し離れていた方が、都合がいいのかもしれない。いずれにしても、不確実な先のこと考えても疲れるだけ損だから、当面は今を楽しむことにしている。
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