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藤原新也「一億総小姑化の時代に思う」
文藝春秋2月号の巻頭エッセイで、作家の藤原新也さんが、昨今の日本人が揃って小姑化していると嘆いている。
藤原新也さんは1944年生まれだから私より3年上、現在80歳。東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻中退。写真とエッセイを組み合わせた『印度放浪』が大きな反響をよび、以降、多くの写真集、ノンフィクション作品などを出している。
昨年読んだ「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」は14篇を収めた短編集、いずれも美しく切ない作品で心が打たれる。表題になっている「コスモスの影には・・・・」はネットカフェ難民の男女の出会いと数年後の再度の出会い(らしきもの)を描いている。最後の情景描写、心情描写が素晴らしく、思わず自分と重ねてしまう。私の読書記録の勝手評価は、5段階中最上級のS。
以下、エッセイの一部を転記します・・・・
パワハラ、セクハラ、カスハラという言葉はかねてより存在するが、この言葉や行為に対する評価が私たちの生活を左右するまで肥大化したのはこの数年のことであり・・・
・・・昨今、世の中という惑星はこの言葉を中心に回っているような気がする。ハラスメント過敏症と言うべきものは政治の世界にも反映されており・・・2024年後半期の話題を座巻したのは兵庫県知事のパワハラ問題である。当初伝わってきた情報としては、部下との対話中に付箋を投げつけた。訪問先の玄関20メートル手前で公用車が停止し歩かされたことに叱責した。訪問先でワインなどの贈答品を受け取った。これにおねだりというラベリングがなされるなど、かつてならスルーされるような出来事がメディアで大きく取り沙汰され、元県民局長の自殺(原因は現時点で不確定)で一気に火がつき、連日連夜、あたかも戦前のようにほぼ全メディアで同調圧力が働いたかのような糾弾が展開される。・・・他者の子細な一挙手一投足を監視するあたかも一億総小姑化の時代を迎えるかのごとくであり、小姑が世を座巻するこの日本の有様からはイノベ―ショナルな何物も生まれないような気がする。
確かに昨今のメディア、特にワイドショーでコメンテイターと称される訳の分からない人たちが、同じ調子ではやし立てるのにはあきれるばかりだ。菅首相の末期、コロナ感染がピークに達し、全メディアが菅首相を糾弾したが、政府のワクチン作戦が功を奏して一月後に収まると、全メディアは、自分たちが間違っていたとも、政府の作戦が功をそうしたとも言わず、不思議ですねなどと言うばかりだった。
しかしながら、兵庫県知事の出直し選挙では、メディアに叩かれて失脚した斎藤氏が再選された。実際はパワハラもおねだりもさしたることはなく、斎藤氏の県政改革への抵抗勢力の企み(クーデター)と判断した県民の方が多かったようだ。メディアはこの結果を、SNSの有様に問題があるなどと言っている。勿論、SNSには真偽の怪しい情報が溢れているが、テレビ、新聞のように画一的なものではなく、まともと思われる情報を自分で選ぶことが出来る。
知事選対抗馬の稲村さんはSNSの問題を持ち出し、SNS作戦で負けたかの如く言っているが、県民は斎藤氏の政策を選択したのであり、本論を理解していないような気がする。
藤原氏の言うように、小姑化している国民は多いが、一億全ての国民ではない・・・・のではないか。