見出し画像

自宅で死ぬための大会議 ④ 目の前の一日をどういきるか

 以下、死ぬ前に死ぬまでの間をどう生きるかが大切との話です。
 
 石川:どう死ぬかを考えるのもいいですが、そこに行き着くまでにどう生きるかを考えることこそ、最も必要な準備ではないでしょうか。そう言う心がけがないと、いくらお金があろうが高級老人ホームに入ろうが、幸せな最期は迎えられないような気がします。
 三砂:私も同感です。「死は自分に属していない」必ず誰かの世話になる。自分ができることは、一日一日を懸命に生きて、関わっている人との関係が昨日より今日のほうが良くなるように人生を積み重ねていくことだけです。
 
 「尊厳死」をどう考えるか
 
 山中:自分がいつ死にたいかを自分で決めたいと願う最たる例が安楽死や尊厳死を望まれる方ですが・・・。医師が使える麻薬の量には上限がありません。苦しさに応じて麻薬やステロイド、ミダゾラムという鎮静剤などを上手に使えば、独居でも家族がいても、安らかな死が近づくまで家で過ごして、料理をしたり外出をしたりといった人間らしい生活ができるんです。
 三砂:どのように死ぬか、ではなく、どんな状況になっても自分の生を手放さないように生きるにはどうしたらいいか、それはとても難しいことですが、考えていきたい。
 甚野:私は安楽死や尊厳死の定義や良し悪しの判断もつかないですし、お二人のお話を聞いてなおさら分からなくなりました。
山中:私は二日に一回程度の頻度でお看取りをさせていただいてきて、当たり前ですが、一人として同じ人はいないと実感します。異なる個々の価値観に寄り添うためにも家で死ぬことができるという「幸せの選択」だけは用意しておきたいですね。
 
 行政のチェックがもっと必要
 
 三砂:主人を家で看取って、(公的な)医療保険と介護保険を使えば・・・家でも施設でも死ぬことができる。そのことが分かっていなかったことは問題でした。
 山中:病院のお医者さんでも、家で看取るための介護制度については、殆どの人が知らないんです。患者さんがこんな状態にあるのに家で生活できるはずがないとか、在宅診療に任せられるはずがない、と思われてしまうことがよくあります。なんちゃって在宅診療や、介護の悪徳事業があるのも事実です。・・・行政が厳しくチェックする仕組みを作って欲しいですね。
 石川:介護保険の認定がブラックボックス化していることが非常に問題だと思います。介護の入口が明確化されていないのはどう考えてもおかしいので、早急に改善して欲しい。
 
 家庭医の育成を
 
 三砂:病気のみをみるのではなく、その人自身や家庭をみる家庭医の育成が医学部教育の一つの重要な柱になってもらいたい。
 山中:行政として地域医療や介護に真剣に取り組んでいる自治体はあまりありません。都心でも地方でも、特定の志ある在宅診療機関や介護事業所がたまたま存在する地域で「恵まれた看取り環境」がつくられているだけです。今後は行政が主体となって医療介護の質を上げていってもらいたい。
 
 
 以上が「自宅で死ぬための大会議」の大まかな全容です。私が家で死ぬことが出来るかは、その時の病状、緊急性にもよるでしょうが、一番のキーポイントは監視人との関係と監視人自身の心身の状態と思われます。それをクリアできれば、あとは人形町での公的な在宅医療と介護がどの程度整っているか、今から監視人と共に調べることにします。

いいなと思ったら応援しよう!