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優良企業に変身

 2000年に赴任した新潟の会社は、社員300人程度、
親会社から見れば地方末端の枝葉、
私は新潟に会社があることさえも知らなかった。
会社はずっと経営不振だし、土地も人も事業も全て初体験、
それでも、理由なく何とかなるだろうと思って赴任した。
物事を深刻に考えない、いい加減な性格が幸いしたらしい。
 
 着任して色々(無理な)方針を出したが、
社員がそれぞれの立場で自分のことと捉え、粘り強く実行し、
時の運にも恵まれて、2年後にはそれなりの利益を上げ、
4年後にはグループきっての高収益、無借金の優良企業に変身した。
以下、一端をかいつまんで述べてみたい。
 
・管理体制
 出勤初日に、社長室はここですと、
事務所2階奥の広い立派な部屋に案内された。
書棚には過去の諸々の書類、
机にはスタンドアローンのパソコンが1台、
初日はその部屋にいたが、様子か何もわからない。
で、直ちに事務所の全員がいる1階の執務室に移った。
パソコンを事務所全員に配置し、社内ネットワークを構築、
今なら当たり前だが、当時は珍しかった・・・らしい。
 
 会社は3事業部に分かれて、事業部間の反目が目立つので、
事業部を廃止し、製造部と営業部に再編、
製造部長は社長(私)が兼務し、
営業部長はナンバー2の常務が担当した。
事務所はスリム化し、風通しがよくなったし、
親会社からの出向社員も減らせた。
 
・不採算事業の撤退
 先の望みのない事業から撤退し、経営資源を他に振り向けるのは、
言うは簡単だが、なかなか難しい。
色々苦労したが、兎も角、思い切って撤退した。
設備処理に伴う見かけの一時損は大きかったが、
前の社長の責任にして乗り切った。
これは、社長が変わる時の常套手段、世にいくらでもある。
 
・技術開発
 会社にはそれなりにオリジナリティーのある商品があったが、
今一歩の完成度で、業績に寄与するには至っていなかった。
 
 先ずは携帯電話バイブレーターの分銅だ。
当時の携帯電話は受信時にぶるぶると音を出して振動したが、
あの振動は超小型モーターが偏心の重り、
すなわち分銅を回して発生させる。
当社の分銅は特許のタングステン合金で
耐食性に優れ絶対に錆びない。本質的な性能はいいのだが、
製造時のトラブルが多く、結果としてコストが高かった。
設備投資とプロセス改善で製造を安定させ、
1年後、不合格はほぼなくなった。
最盛時には世界シェアの40%を占め、花形商品になった。
 
 次はイオンプレーティング、
金属の切削工具や金型の表面に窒化金属の硬い膜を密着させて、
寿命を伸ばす高度な技術だ。
顧客から工具や金型を預かって膜処理をして送り返す。
膜にもとめられるのは、価格より性能、
性能が良ければ工具の寿命が数倍にも延びる。
いい膜を開発すれば、価格が高くても、売れる。
親会社研究所の協力も仰いでいち早く新たな膜を開発し、
他者をリードして全国への販売体制を構築し、
3年後には会社最大の利益源になった。
 
・土地の賃貸
 会社は元々電炉工場だったこともあり、約8万坪の敷地がある。
生産に使っているのはその3分の1程度にすぎない。
空室の目立つ社宅、独身寮、体育館などの厚生地区、
事業撤退により生じた遊休地など、
生産施設以外の全ての土地をパチンコ屋、スーパー、家電量販店、
その他もろもろの商業施設に賃貸した。
各地の賃貸に至る経緯は色々あるが、ここでは省略。
結果、年間数億円の不労所得、まさに持つべきものは土地だ、
 
 業績が良ければ、期末賞与もかなり出て社内の雰囲気はいい。
そうなると、社長が自ら進んでやることはほとんどない。
暇に任せて毎週末、日本海沿いの小旅行を楽しんでいたが・・・
8年後、上場企業のトップへの移動を打診(指示)された。
数年前から経営不振に陥り、粉飾決算まがいまであり、
会社の立て直しならあいつだ、との事らしい。
 
注:写真は硬質の膜処理をした工具
  先端の紫部分が被膜処理されている。

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